直方鉄工協同組合
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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕
明治篇:第一節 筑豊炭田の夜明け
1.鉱山解放令
 明治二年二月、いわゆる鉱山解放令とよばれる太政宮布告が出されました。
 布告の内容は、「鉱山開拓之儀ハ、其地居住之者共、散障無之候ハハ、其支配之府藩県へ願之上、掘出不苦候、府藩県二於テモ旧習二不泥、遠二差免可申事」
 というものです。つまり、地域住民の反対がなければ、誰でも願い出て石炭を掘っても良いというのです。
2.石炭ラッシュ
 これを機に、筑豊に石炭ラッシュがおこり中小炭鉱の乱立がはじまりました。明治の炭鉱研究家高野江基太郎は、その時の状況を、「長江ノ堤防缺潰(けつかい)シ、濁浪(どくろう)天二漲(みなぎ)ルノ勢アリ―各対至ル所三、五ノ小坑ヲ見ザルナク、旦ニ五人十人ヲ集メテ開キシモノタニ去リテ顧ミズ、谿間(けいかん)山腹空シク、狐穴ヲ留ムルモノ、其幾何(いくばく)ナルヲ知ラズ(直方市史石炭鉱業篇より引用、以下単に『石炭篇』という)」と書いています。
 明治六年には「日本坑法」が布告され、法規の面から鉱山解放令を補完することになりました。
3. 明治六年頃の鞍手郡内炭鉱数
直方市史 石炭鉱業篇
直方市史 石炭鉱業篇

 いろいろな問題と曲折を孕みながらも、筑豊の炭鉱数は増加の一途を辿りました。「福岡県地理全誌」に基づいて作製された「石炭篇」の資料によれば、明治六年頃の鞍手郡の炭鉱数は七十二坑、内訳は、
 直方町一 山部二 新多五 勝野五 赤地四 御徳十三 中泉二 下境六 中山一 木月三 古門一 新延四 長谷三 八尋四 蟻光二 鶴田三 大隈二 宮田四 長井鶴一 四郎丸五 植木一
 となっています。 また、「石炭篇」は「明治十二−三年代の炭鉱数は筑豊だけでも数百といわれ、一説では六百坑(筑豊石炭鉱業会五十年史三頁)といわれた」とも書いています。
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