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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕
1.炭鉱の機械化すすむ
石炭史話
明治十二年の加藤鉄工場を皮切りに、明治二十年から三十年にかけて、続々と鉄工場の出現をみますが、これには、炭鉱の機械化が大きな要因となっていました。
明治十年代のはじめ頃は、石炭の「採掘法ハ、変則掘ニシテ鉱脈ノ長短深浅、炭層ノ厚薄ハ予メ計ルコトナク、蒸気機関ヲ有セズ、一度出水ニアヘバ忽然之ヲ廃シ、極メテ開掘シ易キ鉱脈露出ノ地ヲ選ビテ之ヲ穿ツ、甲ヲ廃シ乙ヲ起シ、曽テ開坑原費ニ備フルノ資力ナシ」(「洋人ポッター報告書」、「石炭編」より引用)という有様。調査もせず、蒸気ポンプがないから水が出るとお手上げとなり、その坑を止めて別の坑を掘るといった原始的なものであったというのです。
坑内の水を排水する方法も極めて原始的で、水方とよばれる排水夫が、タルでくみ出すというものでした。
朝日新聞西部本社刊行の「石炭史話」には、その模様が次のように書かれています。
線香が消えるまで
明治三、四年ごろ、筑豊きっての大炭山だった城ノ前炭坑の模様を「日本石炭読本」(浅井淳著、昭和十六年刊)は次のように書いている。
長さ百メートル足らずの坑道が十二段に区切られ、そこに水たまりができている。四十人の水方(排水夫)が一斗ダルでリレー式に水を坑外にくみあげる。小頭(係員)が線香一本に火をつけ、燃え終るまでの約四十分間にタル五百をくみ出す。
一日の作業は線香約十二本分。つまり八時間にタル六千杯。ざっと百キロリットルの排水がノルマ。三交代で昼夜ぶっ通しだった。
坑夫は四百八十人。それで一カ年間の採炭量はわずか八千二百トン余り。採炭より排水が大仕事だったのだ。
城ノ前坑の排水は「段くみ」と呼ばれ、当時では大がかりな排水法。ほかに井戸に使う「はねつるべ」や、小ヤマでは、モウソウ竹でつくった「フイゴ」を使った。「フイゴ」は子どもの水鉄砲を大きくしたような幼稚なもの。いろんな工夫、苦心が払われたが、まだ機械を使う文明はヤマには及んでいなかった。
手くみ排水 山本作兵衛画
蒸気ポンプの出現
出水の処理こそは、当時の筑豊の諸炭坑にとって最大の課題でした。
筑豊で最初に排水用の蒸気ポンプの運転を試みたのは片山逸太でした。明治八年のことです。この試運転は失敗に終わりましたが、多くの炭坑経営者の心をゆりうごかす快挙でした。 再び「石炭史話」を開いてみましょう。
蒸気ポンプによる初の排水実験
鉄でつくられた大きな太鼓のような機械のまわりに、竹矢来がはりめぐらされ、近辺から見物人がつめかけた。数ざっと一万。(筑豊炭礦史、明治31年刊)茶店、みやげ店も立つ騒ぎ。
「長崎からもってきた蒸気汽缶
(きかん)
。おばけのごとある」「坑内の水ば、くみあげるげな」。ものめずらしそうな目が"奇妙な機械に注がれる。そのなかには後に筑豊炭田のご三家となった麻生、貝島、安川などの炭鉱主の姿も見られた。暮れもおしせまった明治八年、遠賀川の支流、中元寺川のほとり、福岡県田川郡糸田の小高い丘。片山逸太が行なった筑豊初の蒸気ポンプによる排水実験である。
筑豊炭田の夜明けは水との戦いで始まった。地下の炭層を掘れば、水がわく。地表から浅いときや、山はだの炭層に横穴を開いて掘るぐらいなら、排水も大したことはない。十メートル、二十メートルと掘りすすむと、もう水で掘れなくなる。採炭、排水はすべて人力。だから水が出ると、そこを捨て、ほかの炭層を捜す。
「一にも水、二にも水。地下水に勝ちさえすれば、もっとスミは掘れるとやが」−維新直後の鉱主たちの悲願だった。そこへ機械排水。
動かぬ圧力計の針
「だいぶ燃やしたごとあるが……」直径二メートル、長さ二メートルばかりの汽缶。片山逸太はその下部にあるたき口から石炭を必死につぎこんだ。真赤な炎は汽缶の後部にまわり、さらにパイプを通って汽缶のなかの水を熱し、また前部にもどって煙突に抜ける仕組み。しかし、目ざまし時計のような圧力計の針は少しも動かない。
長崎で造船技師をしていた経験から蒸気船の汽缶をヒントに炭鉱排水をやってみようと考え、古い汽船の「ドンキーポンプ」を買ってきての機械排水。だが、まだ技術は幼稚。狭い船内と、師走の冷たい風が吹きさらす坑口。同じ石炭をたいても条件がちがう。それに、汽缶は裸。何ひとつおおいがないので、外気で冷却されていることも気付かない。最初の日はやたら見物人のストーブ役にしかならず、間歩(坑内)から一滴の水もでなかった。
「ポンプの弁を開け」
二日目。朝から昼すぎまで石炭をたきつづけた。逸太の目は血走り、汽缶のまわりをいく度も回る。
「こげんなったら、カマが割れるごとたいてみる。もっと炭バ。みんな竹矢来の外に難れとれ」逸太は、フンドシひとつになってカマをたく。太陽が西の空に傾きかけたころ圧力計がやっと動いた。
「ポンプの弁を開け」。その瞬間「ドットン、ドットンブー」という異様な音とともに間歩から勢よく水がはき出された。
「これは、この世にあるもんじゃなか」
「長崎からもってきたとやき、世にいいよるキリシタンの本体じゃ。それでなきゃ、神か仏ばい。おろそかにでけんばい」
「ドットンブー様」
サイ銭を投げておがむもの。腰を抜かす見物人。鉱主たちだけは目を光らせ、機械のすみずみまで見入っていた。
技術革新の第一陣
「これで、排水でくるごとなりゃ、水くみは一人もいらんごとなる。みんなでスミば掘れるたい」
鉱主たちが機械を見たのはこのときがはじめてだった。そして、その威力におどろいた。ドットン、ドットンブー様は筑豊のヤマの技術革新の第一陣となった。
たしかに片山逸太が実験した機械は坑内から水をくみあげた。しかし、それはツカの間だった。どよめきがおさまらぬうちに「ドットンブー」と威勢のよいポンプの音もとまってしまった。
神に祈る気で投げたサイ銭が歯車にはさまって故障したとか、あまりカマをたきすぎて、汽缶
(きかん)
の油が切れたためとか、古い炭鉱本には記されている。
その後も蒸気ポンプ使用の試みが、いろいろな人々によって続けられました。
とにかくポンプを
機械排水は鉱主たちの心をポンプにひきつけた。貝島太助が二千九百円で長崎から汽船用の蒸気ポンプ一式と、まきあげ機などを購入したのもこの一年後。帆足義方も明治十一年に香月坑(北九州市八幡区)にとりつけたがどちらも失敗した。
「とにかくポンプを」―という執念があるだけで、機械の構造や操作も知らない。故障をなおせる技術者はいなかった。
麻生太吉は鯰田坑(飯塚市・現三菱の鉱区)の排水で、動かない汽缶を棒でたたいて動かそうとしたという珍談も残っている。それでも鉱主たちは、大金をはたいて機械排水をこころみつづけた。(石炭史話)
明治十四年、ついに古河目尾鉱において、杉山徳三郎の手で、筑豊における最初の蒸気汽缶による機械排水が成功しました。
初の機械排水に成功
筑豊で蒸気汽缶による機械排水に成功したのは、明治十四年の春である。片山逸太から六年後。長崎の旧大村藩士杉山徳三郎。いまの古河目尾鉱の鉱区だった。
杉山は十八歳のとき、藩から選ばれて長崎でオランダ人から兵式教練や兵器、雷管の製造を学び、造船所の職工をしたり、維新直後は製鉄所を経営するなど、海外の技術をとり入れた文明開化の先駆者。
「鉄と石炭は文明国の原動力。炭鉱の経営はまず排水。辞書をひきひき、洋書で機械力の利用を勉強した。ポンプをもちこんだときは、気でも狂ったのではないかといわれたのだが……」。
杉山は開坑当時の苦難を昭和二年一月号の「石炭時報」(石炭鉱業連合会発行)に述懐している。(石炭史話)
蒸気排水ポンプ 山本作兵衛画
以後、明治十六年には、新入、豊国、明治、赤池の諸炭鉱でスペシャル喞筒が採用され、三十年以降には更に性能のよいウォーシントン喞筒が新入、赤池、忠隈、明治、豊国の諸炭鉱で使用されるようになり、坑内排水問題は一応の解決をみるようになりました。
2.鉄工場の簇生
このような蒸気機関の多用は、需要となって直方鉄工界を刺戟し、次次に鉄工場を生む結果を将来しました。
加藤鉄工場につづいて、明治十年代の終わりから二十年代にかけて誕生した鉄工場は、「直方文化商工史」によれば、
明治十九年
中村組鉄工所
明治二十年
飯野鉄工所(飯野 範造)
牛島鉄工所(牛島 初太郎)
明治二十五年
村上鉄工所(村上 福太郎)
明治二十七年
福島鉄工所(福島 岩次郎)
明治三十年
飯野鉄工所(飯野 瀧造)
などです。
また、別の資料として、「鞍手郡是」に明治四十二年末調査の直方の工場が載っています。これは、
直方の工場調 明治四十二年末調(鞍手郡是)
工場名
創業期
主要製品
福島鉄工所
18.1
各種ポンプその他
中村製罐
(かん)
場
21.5
鉱山用諸機械
竹田鉄工所
23.1
同
増原鉄工所
25.4
同
西谷鉄工所
26.11
鋳鉄管短管
村上鉄工所
27.4
鉱山用諸機械
金本製罐所
27.5
汽罐調整及修繕
飯野鉄工所
33.2
鉱山用諸機械
石橋鉄工所
33.2
同および石油発動機
直方鉄工所
34.10
鉱山用諸機械
南部鉄工所
38.7
同
と、なっており、創業年度について、二つの資料の間に若干の差異が認められるものもあります。
いずれにしても、炭坑相手の機械の製造修理をする鉄工場が次々に誕生した様子が伺えます。
明治26年の新手炭坑判取帳にある中村鉄工場
明治26年の新手炭坑判取帳にある福島鉄工場
3. 筑豊鉄工業の嚆矢・中村鉄工場
明治二十年代に出発した鉄工所の中で、中村鉄工場については、その誕生の記録が正確に保存されています。
中村鉄工場を創った人は中村清七氏で、山部の随専寺
(ずいせんじ)
の裏の墓地に、「中村清七氏碑」という記念碑があります。碑銘は柔道で有名な講道館の嘉納治五郎が書いていますが、裏面の碑文(原文は漢文)は、
先生、名ハ清七、長崎ノ人、考諱(父)卯三郎、妣(母)イノ氏、年甫十二(一二歳の正月)幕府所設ノ長崎製鉄所ニ入リ、蘭人(オランダ人)ニ就キ機械ノ製作ヲ学ブ、術ニ従リ明治六年始テ唐津炭坑機械長ヲ為ス、尋テ豊前糸田炭坑機械長ト為ル、十一年筑前人貝島太助ノ聘ニ応シ直方炭坑機械監督ト為ル、前後所用ノ機械咸ナ其手ニテ成ス、既ニシテ辞去シ五嶋人亀嶋某汽船大高丸ヲ造ル、先生為ニ其汽機汽罐ヲ製ス、瀬崎某精米所ヲ設ケ先生又為ニ其汽機汽罐ヲ製ス、終始一人ノ力ヲ以テス、完成ノ時ニ人驚嘆ス、次デ神充ノ為十三年復ビ長崎製鉄所二入ル、十七年復ビ貝島氏経営スル所ノ筑前斯波炭坑大之浦炭坑等ノ機械監督ヲ為ス、二十年鉄工業ヲ直方ニ於テ創始ス、此レ実ニ筑豊鉄工業ノ嚆矢也、既ニシテ事業所盛ン、其所ノ役職工徒今七十余人ノ多キニ至ル、為ニ因テ分工場ヲ津田ニ設ク、其所ノ製作機械、前後百数ヲ次ヅクナリ、二十二年疾ヲ穫テ業ヲ嗣子ニ譲ル、時二年四十三、筑豊炭田ノ海内ニ盛ナルヲ顧ミテ本邦工業ノ興ル一由此ニ有リ、然シテ筑豊炭業ヲシテ今日ノ盛ニ致ラセシ所以ハ先生ノ有力ニ与カルナリ、則チ先生ノ斯業 ニ功アルコト亦大トセザルヤ、先生後進ヲ誘掖シ諄々倦マズ、其等感恩至ツテ深シ、仍テ門人足日石碑ヲ建ツルヲ謀リ其事略ヲ昭カニ告来シ、茲ニ以テ良ク本意ヲ報ジテ云フ
大正九年六月二十九日没六十九歳
中村清七氏碑
と、いうものです。
要約しますと、中村清七氏は嘉永五年に長崎に生まれ、十二歳のとき幕府直属の長崎製鉄所に入り、オランダ人について機械製作を学び、唐津炭鉱機械長、豊前糸田炭坑機械長を経て、明治十一年に貝島太助に招かれ、直方炭鉱機械監督を務め、十三年には長崎製鉄所に帰り、以後十七年には再度貝島に招かれて、筑前斯波
(しば)
炭坑、大之浦炭坑の機械監督を務めた経歴の持主。明治二十年には直方で鉄工場を創ったというもので、特に、「筑豊鉄工業ノ嚆矢
(こうし)
(はじめ)也………筑豊炭業ヲシテ今日ノ盛ニ致ラセシ所以
(ゆえん)
ハ先生ノ有力ニ与カルナリ」という文句が光っています。
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