直方鉄工協同組合
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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕
昭和・戦後篇 第三節/産炭地域振興政策
1.産炭地域振興臨時措置法の成立
 石炭から石油へのエネルギー革命の波にのまれて、筑豊の諸炭鉱が次次に閉山していくことによって、筑豊は決定的な打撃を受けました。それは単に石炭業界、鉄工業界の問題にとどまらず、筑豊全市町村の存立を危くする深刻な問題でした。
 "筑豊を救え!""産炭地に救いの手を!!"という声は、筑豊の市町村から県へ、県から国会へと、全国の産炭地からの叫びに和して伝わりました。
 これに応えて、昭和三十六年十月、国会で産炭地域振興臨時措置法が成立し、それに基づいて、翌三十七年七月、産炭地域振興事業団が発足し筑豊に再開発の手がさしのべられることになりました。
 一方、直方市においても、石炭産業にかわる産業の開発が緊急の課題として取りあげられ、何とか外部からの企業を誘致して直方市に活力を与えたいという見地から、昭和三十七年三月、「工場誘致条例」が制定されました。
 さらに、このような国、市の一連の施策に先行する運動が直方鉄工界の中にも生まれていました。それは、「昭和三十三年十二月、直方鉄工業界の有志十数名が、工場の体質改善を目指して工場の集団化を企図し、その適地として、下山部明神池付近、頓野四十塚、中泉、木屋瀬笹田の四候補地をあげて実地踏査を行ない、着々として企画を進めつつあった折から、政府においては、中小企業振興政策が採択され、従来の助成法が改正されて、中小企業者に対して、工場敷地、工場家屋、機械設備資金に至るまで、国から融資する途が開かれた。
 組合では早速法の適用を受けるため、関係官庁に対し、積極的運動を展開した。
 たまたま、石炭産業斜陽化の影響をうけた産炭地域の疲弊した産業を救済するため、政府は『産炭地域振興臨時措置法案』を国会に提出、この法案を審議する衆議院産炭地域振興特別委員会よりの喚問に応じて、時の組合理事長西尾善恵氏が上京し、炭鉱関連中小企業者を代表して業界の窮状を訴え、忌憚なく意見要望を開陳した」(直方鉄工65年史草稿)という内容のものでした。

2.工場団地の造成
 昭和三十八年十二月には、産炭地域振興事業団の手で、中泉工場団地の第一期工事が始められました。この工事は翌三十九年十二月に完成しました。
 四十一年七月には同じく産炭地域振興事業団の手で、第二期工事として新中泉工場団地の造成が始まり、四十二年十月完成しました。これによって、中泉には三十五万平方メートルの工場用地が出来あがりました。
 待ちに待った工場団地ではありましたが、外部企業の進出は遅々として進みませんでした。また、団地完成の暁には移転するはずであった市内の中小鉄工所も二の足を踏む状態が続きました。
 西日本新聞の特集「曲がりかどの直方鉄工界」の第一回「身動きできない業者」は、その頃の実情を次のように述べ、産炭地域振興問題の困難性を示唆しました。
工場団地の造成はじまる
工場団地の造成はじまる
 「直方鉄工界の新天地として直方市東南部の中泉に、政府機関である産炭地域振興事業団が約九十万平方メートルの土地を買収"中泉工業団地"をつくり始めたのは三十八年末。ブルドーザーがうなり、シャベルカーが右往左往して、これまでの山地が、みごとな工場敷き地に変わってゆく姿は、石炭産業をただひとつのよりどころとして石炭機械器具だけをつくってきた直方鉄工界大部分の業者たちの"あすへの姿"を見るようだった。こうして中泉団地は昨年末、わずか一年間で、第一期工事分のA団地(約二十三万平方メートル)が造成された。団地内を走る幹線道路の路面工事、排水工事、さらに近くを走る既設の道路と団地敷き地を結ぶ取り付け道路工事もすっかり終わり、いちばんたいせつな工業用水確保の見通しもついた。
 『さあ、お待ちどうさまでした。みなさん早くおいでください』と地主さん(事業団)はお客さん(直方鉄工業者)に呼びかけた。ところが、お客さんは行かなかったのである。
 事業団が工業団地の造成計画を立て、それを実行に移している間に、日本国中を不況のアラシが吹きまくり、直方もまた例外ではなかった。このため、団地完成後、事業団が決めた三・三平方メートル(一坪)当たり二千九百円―四千二百円(平均約三千五百円)という譲渡価格を聞いて、直方鉄工界は、ほしくても手が出せない"身分"になっていたわけである。団地造成計画を聞き、われもわれもと新天地への移転を希望し『できあがったら、わたしのところはこれだけ必要です』と、購入予定面積まで明示して、直方市などとともに中泉団地の実現を陳情したという鉄工業者までが、いまでは移ろうとしないのだ。
 "動こうとしない"という表現は誤っているかもしれない。事実は直方の鉄工業者の大部分が"動けない"状態にあるからだ。それは、直方鉄工界の構造にも起因する。直方市商工課の調べによると、同市内の鉄工業者は現在、百六十一業者(従業員計約二千八百人)。このうち受注なしで製品をつくる見込み生産を行なっている業者は五パーセント足らずで、大部分が"下請け"と呼ばれる受注生産をしている。おまけに従業員数九人以下の企業が全業者の半分以上、二十九人以下は七〇パーセント以上、また会社組織になっていない個人企業が全体の八〇パーセント近くを占め、たえず景気変動のシワ寄せを受けている。このため、労働条件、労働環境も悪く、技術のすぐれた従業員がこないので製品の質の高度化も期待できないという悪循環を繰り返しており、生産性も低い。これでは新しい土地を買い、新工場をつくる余裕がないばかりか『事業を拡張したい』という意欲はあっても『借金までして中泉団地に入っても、やっていけるだろうか』という不安感がたえず先に立つ」
 団地の造成はつづけられ、四十年には明神池工場団地の造成が産炭地域振興事業団の手で始められました。
 この他に、直方市の手で永満寺団地が、また昭和四十八年には直方工業団地協同組合の手で上頓野に直方工業団地が造成されました。三十九年から四十七年までの九年間に、造成面積百十三万平方メートルの工場団地が完成したことになりました。

3.企業の進出
明神池団地に進出したパロマ工業
明神池団地に進出したパロマ工業
 昭和三十九年十月には、誘致企業の第一号として、大石産業の建設がはじまり、四十年五月から操業が開始されました。
 四十年十一月には中泉工場団地で近藤鉄工が操業をはじめました。
 四十二年七月には明神池工業団地に合同鉄工所が進出。
 四十三年五月には、直方市の鉄工業六社で作られた鉄工協同組合が、振興事業団の工場誘致制度の適用を受けて明神池団地へ、四十三年九月にはパロマ工業株式会社が同じく明神池団地へ、四十四年三月には立石電機が永満寺団地へ、また四十六年九月には筑豊鉄工協同組合が中泉団地へ、それぞれ進出しました。
変貌を遂げつつある中泉工場団地
変貌を遂げつつある中泉工場団地
 その他にも、中泉に三井工作所、上境に九州ベークライト工業、新入に東芝エレクトロニクス鰍ェ、それぞれ進出し、直方の明日の発展に期待を持たせています。

 なお、昭和五十三年三月における工場団地の状況は次のとおりです。

直方市内工場団地造成状況
(昭和53年3月 現在)
団地名 造成面積
(u)
有効面積
(u)
着工年月日
(昭和)
竣工年月日
(昭和)
施工者 立地企業数 従業員数
(人)
(人)
(人)
中泉工場団地 231,000 193,782 38.12.20 39.12.19 産炭地振
興事業団
18
(うち協同組合 2)
783 311 1,094
新中泉工場団地 231,061 157,129 41. 7.20 42.10.25
明神池団地 224,400 212,814 40. 5. 6 41. 5.30 産炭地振
興事業団
16
(うち協同組合 2)
579 721 1,300
明神池B団地 62,868 57,521 42. 6.24 42.10. 2
永満寺団地 164,847 156,140 40.11.20 44. 1.26 直方市 5 222 386 608
直方工業団地 222,421 150,121 46. 1.14 47. 6.30 直方工業団
地協同組合
21 440 131 571
(資料:直方市経済部 商工課)
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