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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕 |
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4.組合創立年月日の特定 |
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直方鉄工同業組合の創立年月日を特定することは、現在、極めて困難になっています。「鉄工55年史草稿」によれば、
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「直方鉄工55年史草稿」 |
「明治十二年直方市下境日焼地内に、加藤鉄工場が開設されたのが、直方鉄工業の濫觴である。其の後明治二十年飯野範造、中村清七両氏が、明治二十五年村上、手嶋、井上三氏が、明治二十七年福島岩次郎氏が、明治三十年飯野瀧造氏がそれぞれ鉄工場を興し、明治三十二年以上の八工場が親睦を目的とした申合せ組合を組織し福島岩次郎、村上福太郎両氏が前後して世話人となり、春秋二期懇親會を開催してゐたのが、隆々たる今日の鉄工業並に鉄工組合を育くむに到ったそもそもの濫觴である」
とありますし、また、「直方文化商工史」によれば、
「明治三十二年、当時十八軒あった鉄工所の経営者たちが話合って『直方鉄工同業組合』を結成した……規約に法的裏づけをするために三十四年、公正証書の手続を履んでいる」
となっています。さらに、「直方鉄工65年史(美濃部)草稿」では、「三十二年、当時の鉄工業者十五人が一堂に会して懇親の宴を張ったのが機縁となって翌三十三年の秋『直方鉄工同業組合』を結成した。これが現在の直方鉄工協同組合の誕生である。この組合の結成にあたり作成された組合規約は公正證書の手続きを履んだもの」とされています。
現在、組合に保存されている「福岡県直方鉄工同業組合規約」の公証手続の年月日は、明治三十四年十月十一日となっています。
このように、それぞれの資料によって若干の違いがみられますので、組合の創立は、「鉄工55年史草稿」、「直方文化商工史」に従えば、明治三十二年。「鉄工65年史(美濃部)草稿」によれば明治三十三年、公証手続の年月日によれば明治三十四年十月十一日ということになります。
この問題について、別の面から光を投げるもう一つの資料があります。「飯野瀧造日記」がそれです。「日記」から組合に関する記述を拾ってみましよう。
福岡県鉄工同業組合の秋季大会
「日記」に組合関係の記述が最初にあらわれるのは明治三十年です。
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を多福亭のあった新町の高台 |
<九月二十四日 福島ニ行。村山ニ同業組合届ヲ渡シ、福島(福島鉄工場主、福島岩次郎)ハ病院行ニ付、明日行卜云、事付(ことづけ)ル>
この日、飯野瀧造氏が組合加入届を出したというものです。
<十月五日 同業組合ヨリ廻文持来ル。来ル九日午前九時、を多福亭ニテアル>
十月九日に、を多福亭で鉄工同業組合の秋季大会があるとの連絡が来たのです。
を多福亭(おたふく亭)は、当時、新町の堀屋敷(旧中央公民館)の横にあった料亭で、筑豊でも名の通ったものでした。昭和十年代のはじめに火事で焼失して、現在建物はありませんが、花崗岩の石柱で造った門が残っており、往時を偲ばせています。
十月九日の総会当日の記録は、
<十時半頃四人連を多福亭ニ行。本日鉄工同業組合秋季大集會ニテ、小倉、博多ヨリ来ル。同亭ニ昼飯ヲ食ウ。三時半頃ヨリ始ル。三十五、六人寄ル。新入リ五人。會費二円。相談テ本會議本日種々ノ建議アリタレ共、只、組長改選、詮議員ヲ置ク丈、組長ハ博多磯野孫次郎大多数ニテ当選。夫ヨリ酒宴ニナリ、七時頃帰ル。后ハ残テ居ル>
となっています。
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現在も残っているを多福亭の門 |
鉄工同業組合秋季大集会とはなっていますが、「小倉、博多ヨリ来ル」とか、「三十五、六人寄ル」とか、「組長ハ博多磯野孫次郎大多数ニテ当選」などの記述から見て、これは直方鉄工同業組合でないことは明らかです。この組合は福岡県鉄工同業組合とでも呼ぶべきもので、福岡県下の有力鉄工業者が集まって結成されたものと思われます。
さらに、明治三十年十一月三十日に組合費について、
<十一月三十日 四時頃組合事務員重光来ル。十月分組合員費七十七銭渡ス>
とありますし、明治三十一年の三月には、
<三月二十二日 午後三時ヨリ新年度組合集會ニ行。博多大集會ハ四月十日ニ定ムル>
と書かれています。
この組合が、何を意味するかの判断は、かなり慎重を期する必要があるようです。
「博多大集會」というのは、福岡県鉄工同業組合のものでしょうし、「新年度組合集会ニ行」の「組合」は、直方単位の組合とも考えられます。
更に「日記」を追ってみましょう。
明治三十二年には、直方鉄工同業組合を思わせるような記述があらわれて来ます。
<四月十三日 四時半ヨリ鉄工組合ノ集会ニ行。村上、西、中村、竹田、小島ト咄合ノ上、明日総集会ヲスル様ニスル>
<四月十四日 五時頃事務所ニ行。十二人計リ来テ居ル。昨日ノ通リ地金ノ現價千分ノ十ヲ地金屋ニ□シテモラウ所ニ定マル>
このときのメンバー、「鉄工組合」、「事務所」という表現、議決した内容から見て、この組合は、恐らく直方鉄工同業組合ないしはその前身であったと思われます。
三十三年には、
<一月五日 小生ハ組合ノ寄ニ行。古町大黒屋、村上一人居ル。後ハ四時半頃ヨリ、ソロソロ来ル。夜迄ニ九人ニナル。値上ケノ咄合スル>
また、三十四年には次の記述がみられます。
<九月三十日 同業者評議員會ニ付、七時半ヨリ福島ニ行>
<十月十日 福島ニ行、西、中村、村上来テ居ル。少シ咄ヲスル。福島ニ行。夕飯ヲ食イ、今晩積立金一回取立スル>
ここでの積立金のことは「直方鉄工同業組合規約」に出て来ますので、この記述は、直方鉄工同業組合に関するものと言えます。
この様に見て来ますと、
まず、明治三十年頃に、すでに福岡県鉄工同業組合があったこと、直方にはその有力なメンバーになった鉄工場があり、それらが中心となって、明治三十二年には直方鉄工同業組合ないしはその前身組合を創り活動していたこと、明治三十四年に必要上規約の公証を行なったことなどが組合誕生の経緯であったと思われます。
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5.明治末の直方の鉄工場 |
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明治三十年代の不況は、明治三十八年の日露戦争によって吹き飛びました。数年の好況が続きました。
しかし、明治四十一年から、三度不況の波が押し寄せ、鉄工界は苦難のうちに明治の終わりを迎えたのでした。
なお、明治四十年三月の「筑豊石炭鉱業組合月報」は、直方の鉄工場について、次の様な資料を載せており、明治末期の鉄工場の規模を知る手掛りとなっています。(表T)
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表1(原文は漢数字ですが、英数字に置き換えています) |
工場名 |
資 金 |
一年間製造価格 |
職工及徒弟 |
日雇労働人員 |
14歳以上 |
14歳以下 |
男 |
女 |
福島 |
12,000円 |
30,000円 |
30人 |
4人 |
11人 |
4人 |
中村 |
5,000円 |
7,200円 |
6人 |
3人 |
4人 |
- 人 |
竹田 |
3,000円 |
4,200円 |
7人 |
4人 |
9人 |
2人 |
増原 |
6,000円 |
5,800円 |
6人 |
3人 |
8人 |
2人 |
西谷 |
7,500円 |
8,500円 |
18人 |
9人 |
13人 |
5人 |
村上 |
13,000円 |
17,000円 |
23人 |
3人 |
25人 |
6人 |
飯野 |
6,500円 |
12,000円 |
15人 |
6人 |
12人 |
3人 |
直方 |
12,000円 |
21,000円 |
28人 |
6人 |
15人 |
8人 |
南部 |
6,200円 |
8,500円 |
10人 |
6人 |
8人 |
- 人 |
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6.直方電気株式会社の設立 |
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明治四十年五月に、電燈、電力の供給、電気機械の販売を目的とした「直方電気株式会社」が殿町に設立され、四十一年三月十二日から営業を開始、直方の町に初めて営業用電力による電燈が点りました。これによって、それまでカンテラやランプを使用していた鉄工場も電気照明に切り替え、パッと明るくなりました。
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日若座(直方市史より) |
さらに、大正三年には九州水力電気株式会社が直方電気株式会社を買収、動力用電力の供給をはじめました。これ以後、鉄工場にも動力線が引かれ、電動機が取り入れられるようになり、生産能率は飛躍的に上昇するようになりました。
人力から蒸気へ、蒸気から電力へ、直方鉄工界は設備面での近代化を果たしながら、大正時代を迎えるのでした。
なお、直方における最初の電燈は貝島太助によって点されました。彼は多賀町の自宅に発電装置を設置し、自家用として使用したのです。
記録によりますと、明治三十一年頃から貝島太助を中心に設立が進められていた日若座劇場が完成し、その柿落(こけらお)とし(初興業)が、大阪の千両役者中村福助一座を招いて行なわれたのが三十二年六月十三日のことでした。この時、太助は、自宅から日若座まで約二百メートルの電線を引き、自家用電力を舞台照明に使って、役者と観客の度肝を抜いたということです。
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