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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕
5.戦後恐慌の波
大正三年に始まった第一次世界大戦は、日本経済に空前の好況を齎
(もたら)
しましたが、同時に物価の上昇をも招来しました。大正七年八月には米価の高騰に対する一般民衆の暴動が発生、世にいう米騒動として全国に拡がりました。
大正七年十一月、大戦はドイツ側の敗北によって終わりました。しかし、経済的な好況はなお続き、大正八年までは高い水準を持続しました。
大正九年、はじめて、戦後恐慌とよばれる不景気の第一波が日本を襲いました。以後十年の財界パニック、十二年の関東大震災による恐慌、昭和二年三月の金融恐慌と、日本経済の上に、第二波、第三波の不況が襲いかかりました。
炭価の暴落、出炭量の減少は直方鉄工界を直撃、表Vに見られるような鉄工年産額の低落を来し、工場閉鎖が相次ぎ、気息えんえん、かろうじて経営を維持する状況となりました。
当時の模様を「直方文化商工史」は次のように述べています。
「欧州大戦乱がおさまってまもなく深刻な不景気が世界的に拡がった。わが国でも大正九年の財界パニックにもとづく炭界の大混乱で筑豊のヤマヤマは大部分まいってしまった。ヤマが相手の直方鉄工界はそのあふりを食って受注はぴったりとまり、おまけに納品代は回収できないという破目に陥り顔色を失った。
甲の工場では家庭用五衛門風呂のロストルを作ってみたり、乙の工場では鉛をとかして硯を造ってみたりして市場に出したが成功したものは一つもなかった。工場主たちは所在なきまま年季(見習工)たちを連れて山へ薪を切りに行ったり、畑に野菜づくりに出たりした。運転資金力の弱い工場はつぎつぎに手をあげ、工員賃金の支払いに窮して万策つきた工場主の中にはひそかに夜逃げを企てる者が出るなど、散々の苦境に追いこまれた。しかし仲々好機はめぐってきてくれず、工場数は次第に減って四十三工場となり、工員数も三百人に減ってしまった。欧州大戦乱がもたらした黄金時代にくらべ工場数は半減、工員数は三分の一弱に激減した。こうなると鉄工業組合の活動も極めて低調となり、はてはその存在さえ有耶無耶になって解散同様の憂目を見、戦乱景気の反動に抗し得ないまま大正の時代は過ぎて行った。大正十五年の年産額八十一万八千円。欧州大戦乱時代の最盛期(年産額二百二十万円)にくらべ、その凋落振りがわかるだろう」
大戦に明け大戦に暮れた大正期の直方鉄工界は、また大戦に笑い大戦に泣いたのでありました。
こうして、大正の苦難の時代が過ぎていったのでした。
6.一つの物語
第一次世界大戦後の不況の中から生まれた一つの物語りがあります。
大正十年十二月十四日付の福日新聞は、「直方事業紹介」という欄で新たに直方町に設立された日本スチール管株式会社を取上げ、「時代に適応せる 日本スチール管株式会社 驚くべき金本氏の発明 経営者は血気の青年揃」との見出しで、次のように紹介しています。
金本福松氏と自作のタンク
「欧州大戦乱の余波を受け、直方町の鉄工界は一層好景気の絶頂に達し、蒙々として天を覆ふ黒煙は、流石筑豊唯一の鉄工業旺盛の土地として、八幡に次ぐの盛観を呈して居た。然るに一度休戦の報伝得るや、炭坑界の不振は直に鉄工業者の頭上に来り、今は当時の盛況を追憶するに止まり、気息奄奄たる状況である。此の悲境の時期に当り、突如として直方大正町の一隅に、資本金五十万円の日本スチール管株式会社が生れたのである」
「スチール管(鋼管)なるものは目下日本で使用して居るものは多くは外国品の引抜き鉄管のみで、残念乍ら世界の一等国と自任する吾が帝国では、僅かに東京住友製鋼所で六インチ以下の瓦斯管が出来るのみである。
然れば輸入量は年々非常な多額に上り、又非常なる高價品にて、需要者側も如何にかして安價なる適應品の発明せられん事を切望して居るのである。此の点に着眼した金本氏は、あらゆる努力と時間と莫大なる金銭を費し、鋭意是れが研究に没頭し、苦辛惨憺遂に完全なる製法を案出し、数度の試練の結果其効力を顕し、毫舶来品遜色なき六インチ以上の如何なる大管でも、價格の点に於て約三分の一にも達せざる製品を得る事となり、此処に始めて専売特許を出願したものである」
この発明も、なかなか世人に認められませんでしたが、大阪鉄管会社の工学士木村齋雄氏に認められてから事業化の話がおこり、山田喜兵衛氏などの協力で、日本スチール管株式会社の設立にこぎつけたとあります。
設立したものの、大戦後の不景気は如何ともしがたく、大正十一年十月には日本スチール管株式会社は解散の憂き目を見ることになりました。
朝日新聞の東洋径大鋼管の記事
この会社の設立者の金本福松氏は明治二十四年神戸市に生まれましたが、鉄道建設業をしていた父とともに直方町に移住、少年時代鍛冶屋の徒弟として働き、その後大阪に出て溶接技術を覚え、溶接による大口径鋼管の製造法を発明しました。
全国高圧ガス溶材組合連合会が昭和五十四年に発行した「全溶連史」には「わが国最初の溶接工、金本福松氏が、フランス人技師セギーにほめられた自作のタンク」が写真入りで紹介されています。
その技術を生かし、大正十年に直方において日本スチール管株式会社を設立したのが前記の新聞記事でした。
その後、昭和元年に金本福松氏は大阪に出て東洋径大鋼管製造所を設立しました。会社は飛躍の一途をたどり、昭和九年六月二十八日の大阪朝日新聞に「優秀なる製品は益々其真價を認められて各官庁、工廠及民間大会社の注文殺到し」、「昭和八年中の生産額一万五千トンを超え」「更に一大飛躍をなしつつあり」と紹介されるに至りました。なおこの記事には、社長金本福松氏について、一職工より身を起し、本邦鎔接界の草分たる佛人ロワイエー、セギー両氏に師事し其奥義を極め更に自己独得の工夫を加へ所謂径大式鎔接法を創案し」との紹介がなされています。
金本福松氏は昭和十年得度して僧籍に入り金本耕三と改名、広島県瀬戸田町に寺の造営を発願、独力で耕三寺を建立しました。耕三寺は昭和二十五年毎日新聞が主催した日本観光地百選というコンクールの建造物の部で、錦帯橋に次ぐ日本第二位となり、一躍全国に知られ、東の日光、西の耕三寺と並び称せられるようになりました。
金本耕三氏は昭和三十一年耕三寺耕三と改姓、昭和四十五年十月二十五日、その波瀾に富んだ一生を終えました。
大戦後の不景気がなければ、直方における金本福松氏の日本スチール管株式会社は解散しなかったでしょうし、そう考えれば、金本氏の出阪、東洋径大鋼管製造所の創立、耕三寺の造営という一連の生涯も異っていたかも知れないと考えるとき、たしかに、これは戦後不況の中から生まれた一つのドラマということができると思います。(この項の資料は金本融昌氏からいただきました)
7.大正末期の直方の鉄工所
「直方市史 下巻」の第三章第四節(鉄工業)には、大正末期の直方の鉄工所の状況を示す一覧表が出ています。この資料は、直方町を直方市に昇格させるに当たって作製された「直方市制施行申請書」によるもので、大正末期の直方町の鉄工所のうち、年産額一万円以上の十八工場について調査した結果が書かれているものです。
この資料(表W)にあげられた十八工場の年産額の合計は約九十五万円になります。大正末期の直方の鉄工所の総数は六十八、年産額総計は約百万円という前出の資料(表V)とつきあわせますと、十八工場を除く残りの五十工場の年産額は全部で五万円という計算になります。統計に付きものの誤差を考えに入れたとしても、直方の鉄工所の大半が、極めて小規模な工場によって占められていたことが分かります。そしてそれは、体質的な問題として今日にまで長く尾を引いていると思われます。
表W 大正末期の直方の鉄工所
(単位 千円)
工 場 名
開 業 年
資 本 額
主要生産品
生 産 高
従 業 員
事務
技術
職工
計
飯野鉄工所
明治30
148.0
鉱山用諸機械
152.3
1
3
53
57
金本鉄工所
明治33
15.0
製罐
32.0
1
1
11
13
直方鉄工所
明治34
160.0
鉱山用諸機械
178.0
3
2
34
39
田満鉄工所
大正 元
20.0
鉱山用諸機械
33.0
1
-
15
16
野中鉄工所
大正 3
10.0
鉱山用諸機械
22.9
-
-
14
14
若林鉄工所
大正 4
9.0
鉱山用諸機械
19.8
-
-
12
12
国広製罐工場
大正 7
20.0
鉱山用諸機械
91.3
2
-
20
22
福田鉄工所
大正 7
30.0
鉱山用諸機械
50.3
2
1
33
36
高瀬鉄工所
大正 7
30.0
鉱山用諸機械
39.7
1
1
24
26
小野原鉄工所
大正 7
15.0
鉱山用諸機械
45.9
-
-
10
10
渡辺鉄工所
大正 7
20.0
鉱山用諸機械
23.8
-
-
8
8
福島鉄工所
大正 8
160.0
鉱山用諸機械
127.7
4
2
47
53
桑川工作所
大正 8
15.0
鉱山用諸機械
43.2
1
-
10
11
大塚鉄工所
大正 8
13.0
鉱山用諸機械
14.8
1
1
13
15
大森鉄工所
大正 8
10.0
鉱山用諸機械
14.7
-
-
10
10
香月真鍮工場
大正 9
13.0
鉱山用諸機械
28.3
1
-
10
11
小南鉄工所
大正 9
20.0
鉱山用諸機械
25.3
1
3
12
16
野山鉄工所
大正14
13.0
鉱山用諸機械
13.8
1
-
7
8
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