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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕 |
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1.直方鉄工業組合の正・副組合長 |
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直方鉄工同業組合の後を受けて、大正五年に発足した直方鉄工業組合は曲折を経て、昭和十年発足の直方機械工業組合ヘバトンを渡しますが、その間の役員は次の通りでした。
「鉄工55年史 草稿」より (※直方鉄工業組合の発足の時期については、大正四年とした資料と、大正五年としたものとがあり、特定できません) |
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就任の年月 |
組 合 長 |
副組合長 |
第一次 |
※ 大正4年2月 |
飯野 瀧造 |
田才 龍平 |
第二次 |
大正8年4月 |
田才 龍平 |
福田 三平 |
第三次 |
大正12年4月 |
福田 三平 |
飯野 憲一郎 |
第四次 |
昭和4年3月 |
飯野 憲一郎 |
福島 正雄 |
第五次 |
昭和8年4月 |
福島 正雄 |
佐田 徳一 |
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2.「直方町記念誌」より |
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これらの役員のうち・飯野瀧造氏と田才龍平氏については、大正十五年、直方町の筑豊之実業社から刊行された「創建三百年・直方町記念誌」の人物の項に、有志者飯野瀧造氏、直方鉄工組合長田才龍平氏として、それぞれ次の様に紹介されています。
有志者 飯野 瀧造氏
明治元年八月本町に生る。幼時から鉄工鍛冶に志して見習いとなり手腕を磨いた。三十年飯野鉄工所を創業して鉱山用諸機械の製作をなして専ら事業の進展に奮励された結果益々盛大となった。近年炭況不振の影響にて各鉄工所は事業を休止するの已むなきに至ったのに、同鉄工所のみは依然として事業を継続されている。氏は明治三十七年町会議員に選出され、四期を続けて再選され、又、四十三年消防組頭に挙げられ、消防上に尽す事三箇年であった。大正五年直方鉄工業組合組織されるや組合長に選ばれ大に尽す処あり、尚十二年鞍手郡財産組合会議員並に郡農会議員に選出された。国勢調査員、信用組合役員として公共、実業方面に尽力された事多大である。
直方鉄工組合長 田才 龍平氏
明治十年二月二十日、本県嘉穂郡頴田村に生る。幼少の頃は家業の手助けをなして居たが、機械製作に志し、明治二十八年本町村上鉄工所に見習いとなって鉄工上の研究を積む事十ケ年余であった。三十七年独立して鉄工業を創業し、鉱山用諸機械の製作と鍛冶一切を兼業して専心事業の隆昌に努力して現在の盛況を呈するに至ったのである。十三年三月直方鉄工業組合長に挙げられ、続いて九州鉄工協会評議員、鞍手工場懇話会名誉会員に推薦されて斯業の為に尽力されつゝある傍ら、大正三年以降納税組長となり、其他公共の為に奔走尽力された事も又決して尠くないのである。
なお、「直方町記念誌」は、明治三十三年に発足した「直方鉄工同業組合」の設立および運営に力のあった村上福太郎氏について、次のように紹介しています。
前郡会議員 村上 福太郎氏
明治元年八月本町に生る。十四歳の時小学校助教となり直方、下境両校にて教鞭を執った。十七年鞍手郡役所に職を奉じたが、二十年中村鉄工所支配人となり、二十五年独立して鉄工所を創業経営して機械器具の製作をなして、大正三年電気部を新設したるも、大正五年事業一切を中村組に譲り、同七年家具商を開業し現在に及んで居る。
一面、氏は明治十九年消防組小頭、二十八年区会議員、四十三年町会議員に当選して四期を継続し、四十五年区長に、大正元年学務委員に、五年商工会副会長に、八年所得税調査委員、同年郡会議員に当選し参事会員に推され、十二年営業税調査委員、同年郡財産組合議員に選出され其他神社寺院総代、国勢調査委員等として公共に尽力し、又実業方面にも活躍する処大であった。
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3.「直方文化商工史」から |
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直方文化商工史 |
また、昭和三十三年、直方商工会議所が発行した「直方文化商工史」の第二篇、第二章の「工業界の人々」の項は、
「鉱山機械器具類といえば『直方』といわれるほど代名詞化されている直方鉄工界の存在と功績はつぎの人々に荷負うところが多い」
として、飯野瀧造翁と佐田徳一氏を紹介しています。
飯野 瀧造翁
現在生存している直方鉄工界の最長老者は飯野瀧造翁である。
瀧造翁は明治元年生れ。株式会社飯野鉄工所社長飯野憲一郎氏の叔父にあたる。少年時代、そのころまだようらん(揺藍)期だった町の鉄工場に見習工として働き、この道に第一歩を印した。青年時代上京して石川島造船所に入り、本格的技術を修得中、明治二十九年家兄又二氏の訃に接し、石川島を退職して帰郷。翌三十年自宅の一部を工場に改造して鉄工業を創めた。飯野鉄工所の発足はここから始まった。
炭坑用機械の製作が本職だけに炭界の好、不況にともない時にはひどい難局にも直面したが、堅忍持久の精神力を以てこれを克服し、トクイの炭坑も年々に増えていった。
大正十五年、甥の憲一郎氏が福岡工業機械科を卒えて帰省するにおよび、工場経営を同氏に譲って業界から引退した。
その間、直方町会議員(二期)、直方鉄工同業組合長、直方消防組副組頭、直方電気株式会社創立委員、直方信用組合役員などに挙げられ、地方自治、経済界に貢献した。
ことし九十一歳の春を迎えたがまだ元気で、憲一郎氏の孝養をうけ、静かに余生を送っている。
佐田 徳一氏
佐田氏は昭和十二年六月直方市会議員選挙に当選以来三十年三月まで十八年間市政に尽した。その間副議長を経て議長をつとむること二期八カ年。議長任期中の二十六年、全国市議会議長会で国鉄、専売、電信電話等三公社に対する固定資産税(別称納付金)賦課に関する建議案が採択されて直方(佐田氏)のほか旭川・大宮・吹田の四市議長が実行委員に挙げられ、政府、国会に対して猛烈な運動を展開、足かけ五年(この間に内閣が二へん変わった)頑張り通してついに目的を達成した。この法律の実施により、三公社所在市の税収入は全国で年間九十億円に達し、直方市も年間一千八百万円の納付金がころげこんでいる。佐田氏の立てた手柄である。
三十年四月福岡県会議員に当選、県政に参画しているが、地元直方発展のためには常時市当局、市議会方面と緊密な連絡をとって県議会にこれを反映し、着々成果を挙げている。
県立直方職業補導所、県立直方鉱業試験場の誘致。新通町ほか市街部の道路舗装、福地川ほか農村部の河川改修、広甲橋ほか橋梁架設など、県議としての佐田氏の功績は大きい。災害復旧工事として架設にきまった広甲橋など原形復帰が原則であるのに新しく架かる広甲橋は巾が一メートル以上拡がることになっている。
今まで直鞍工業会長、直方市消防団長、福岡県消防協会理事、福岡県鉱山機器工業組合理事長、直方機械工業組合理事長を歴任。現在直方商工会議所、直方鉄工協同組合顧問、直方市援護会理事長を勤めているが、昭和十七年には直方少年工業塾初代塾長としての功に依り紺綬褒章を、同三十三年には“多年公共の利益を増進したる”功により藍綬褒章が授与された。山口県出身。明治二十六年生れ。
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