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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕 |
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1.第一次世界大戦後の不況 |
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第一次世界大戦は日本経済に空前の好況をもたらしましたが、大正七年、大戦が終了し、九年には戦後恐慌が始まり、十年の財界パニック、大正十二年の関東大震災後の恐慌、昭和二年の金融恐慌、昭和四年の、ニューヨーク株式大暴落による世界恐慌と、不況の波は長く尾をひき、日本の経済は苦難の時代を送ったのでした。
直方鉄工界についていえば、不況は大正十年にはじまり、ほぼ昭和六年まで続きました。それを直方の鉄工場数とその年産額についてみてみますと、表Yのようになります。
すなわち、工場数は大正九年の七十三から、昭和六年の五十へ、年産額は大正九年の二百二十三万五千円から八十万円台(大正十五年、昭和二年、昭和六年)へと減少をつづけたのでした。
不況の深刻化に伴って「直方鉄工業組合」の活動も不活発となり、開店休業の状態においこまれました。
図X (「直方鉄工55年史草稿」による) |
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表Y 直方鉄工界の工場数と年産額 |
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工場数 |
年産額(千円) |
大正9 |
73 |
2,235 |
大正10 |
73 |
1,392 |
大正11 |
68 |
1,244 |
大正12 |
68 |
1,011 |
大正13 |
68 |
1,007 |
大正14 |
67 |
1,004 |
大正15 |
67 |
863 |
昭和 2 |
54 |
818 |
昭和 3 |
54 |
1,083 |
昭和 4 |
54 |
1,143 |
昭和 5 |
- |
- |
昭和 6 |
50 |
870 |
昭和 7 |
70 |
1,031 |
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2.「鞍手郡誌」より |
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昭和四年、不況の最中にあった直方鉄工界について、「鞍手郡誌」に次の様な記述がみられます。
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「鞍手郡誌」 |
直方町に於ける鐵工業は、鑛業の勃興に伴ひ發祥せるものにして、其の不振と繁榮とは一に炭界の景況に支配せられたり。欧州大戦當時の好景気時代には、鐵工場九十七従業員一千八百人を算する盛況を呈せしが、経済界の不況は直に鐵工業に影響を及ぼしたるも、昭和四年に於て猶鐵工業者五十餘名を有し其の生産能力は實に六百萬圓に及び、直方町に於ける炭鑛用機械は普く全國に知られたり。やがて炭界好況時代來らば喧噪を極むるハンマーの響、物凄き煙突の火焔は新興直方を象徴するに至るべし。今左に其の主なる工場を記さん。
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工場名 |
創業年月 |
資本金 |
主要生産品 |
昭和4年産額 |
同年従業員 |
直方鐵工所 |
明治34、10 |
160,000円 |
鑛山用諸機械 |
146,424円 |
36 |
飯野鐵工場 |
明治30、4 |
148,000円 |
鑛山用諸機械 |
112,650円 |
49 |
福島鐵工所 |
大正8、4 |
160,000円 |
鑛山用諸機械 |
107,700円 |
56 |
國廣製罐工場 |
大正7、8 |
20,000円 |
鑛山用諸機械 |
96,300円 |
22 |
福田鐵工所 |
大正7、7 |
30,000円 |
鑛山用諸機械 |
51,865円 |
34 |
高瀬鐵工所 |
大正7、7 |
30,000円 |
鑛山用諸機械 |
47,600円 |
36 |
小野原鐵工所 |
大正7、11 |
15,000円 |
鑛山用諸機械 |
45,400円 |
12 |
田才鐵工所 |
昭和3、12 |
20,000円 |
鑛山用諸機械 |
41,939円 |
14 |
桑川工作所 |
大正8、11 |
15,000円 |
鑛山用諸機械 |
40,335円 |
9 |
金本鐵工所 |
明治33、3 |
15,000円 |
製罐 |
31,929円 |
11 |
香月真鍮工場 |
大正9、2 |
13,000円 |
鑛山用諸機械 |
30,200円 |
10 |
田満鐵工所 |
大正元、11 |
20,000円 |
鑛山用諸機械 |
29,400円 |
12 |
小南鐵工所 |
大正9、8 |
20,000円 |
鑛山用諸機械 |
24,950円 |
5 |
原田鐵工所 |
昭和4、4 |
12,000円 |
鑛山用諸機械 |
21,800円 |
4 |
野山鐵工所 |
大正14、6 |
13,000円 |
鑛山用諸機械 |
21,600円 |
13 |
香月鋳物工場 |
昭和4、11 |
13,000円 |
鑛山用諸機械 |
20,000円 |
11 |
若林鐵工所 |
大正4、5 |
9,000円 |
鑛山用諸機械 |
19,200円 |
11 |
渡邊鐵工所 |
大正7、7 |
20,000円 |
鑛山用諸機械 |
16,900円 |
8 |
野中鐵工所 |
大正3、3 |
10,000円 |
鑛山用諸機械 |
16,640円 |
11 |
大塚鐵工所 |
大正8、5 |
13,000円 |
鑛山用諸機械 |
14,000円 |
17 |
大谷鐵工所 |
昭和3、5 |
9,000円 |
鑛山用諸機械 |
12,000円 |
9 |
大森鐵工所 |
大正8、5 |
10,000円 |
鑛山用諸機械 |
11,000円 |
9 |
上は昭和4年生産額壱萬圓以上のものを記載せるものにして、他に壱萬圓未満のもの多数あり。
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3.直方町の鉄工不振対策 |
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大正十五年十一月一日、直方町・新入村・頓野村・下境村・福地村の一町四カ村が合併して新直方町が誕生しました。
直方町は町の中心的な産業である鉄工業の不況に対し、その対策に腐心しましたが、昭和三年、直方町立直方高等小学校の創立を機に、鉄工不況対策の一環として、また、将来直方町の産業を推進する職能人の養成を目的として、高等小学校内に、普通科のほかに農業・商業・工芸(木工・竹工・籐工)・工業などの職業教育科を設置しました。(ちなみに、昭和七年三月の同校第四回卒業生三四七人のうち、農業科は二六名、商業科は六四名、工芸科は五七名、工業科は四七名となっています)
特に工芸科(木工・竹工・籐工)の設置は直方町の産業構造の将来を考えた不況対策として注目されました。しかし戦争の激化に伴う材料入手難と、人手難にたたられて、恒久的な成果をあげることができませんでした。
このことについては「直方鉄工65年史草稿」にも次の様な記述がみられます。
「直方市(ママ)当局においては、大正後期来慢性化したこの不況に対処する方策検討に苦慮し、市経済の主核大黒柱をなす鉄工業没落不振にかわる新産業の移導入を真剣に討議踏査し、慎重審議の結果、木工芸・籐工芸・竹工芸の三者を選定し、高等小学校及び青年学校に各二ケ年制の工芸科を設けて青少年に職業教育を施行した。
この教育は特殊画期的なもので社会及び教育界の注目を浴びたが、予想以上に成功し、将来性も確証され、更に市はこれ等の卒業生に対し、市立産業斡旋所を設け、材料の共同購入、生産品の共同販売、作業場の設置等に町費を投じ町職員数名を専属配置した。従って家内工芸者の製品も併せて斡旋され、将来的構想は現在の大川市を思わせる程のものであったが、支那事変によって、籐原料の輸入は皆無、贅沢品の生産中止、人は重要産業並びに軍隊へと召集され、万事ここに中絶、戦後は元関係者は姿もなく、復興を見なかったことは惜しまれる」
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4.工業組合法の施行 |
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時代は静かにそして確実に動いていきました。沈滞をつづけた「直方鉄工業組合」の眠りを覚まさせる二つの要因が胎動を始めたのです。すなわち、工業組合法の制定と満州事変の勃発がそれです。
昭和五年には産業界で休業、倒産がつづき、年後半からの世界的な恐慌の影響と相まって、わが国の中小商工業者は追いつめられていきました。
商工省は不況対策に苦慮し、中小工業の統制、金融の改善の方途を求め、昭和六年工業組合法の制定を行ないました。
工業組合は、組合に信用事業を認め、協同事業と統制機能を兼ねそなえたものにする狙いをもっていました。
商工省の指導によって、昭和八年には工業組合中央会が法制化され、工業組合の普及啓蒙がはかられました。その結果工業組合の結成が活発となり、昭和八年一月の二百十二から、昭和十年の六百六十二ヘと増大しました。
大正五年、「直方鉄工同業組合」から脱皮し、第一次世界大戦の好況を迎え、その後の不況によって開店休業中であった「直方鉄工業組合」は、ようやく、目を覚まされ、工業組合法の施行という時代の流れに即した変革を迫られることになりました。
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5.満州事変の勃発 |
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満州事変始まる |
昭和二年、中国に蔣介石を中心にした国民政府が樹立されました。蔣介石は国内統一のために北伐(中国の北方に勢力をもつ軍閥を攻略する作戦行動)を開始しましたが、日本は、現地在留民保護の名のもとに、山東半島に出兵しました。
蔣介石の国内統一は一応の成果をあげましたが満州においては、日本軍と中国側との小規模な衝突がたえず、ついに、昭和六年九月、柳条溝における満鉄線の爆破を契機として、大規模な戦闘=満州事変が勃発しました。
昭和七年、戦火は上海に飛び、上海事変へと発展しました。
日本は清国の廃帝をかつぎ、満州国を建てましたが、国際世論の反撃にあい、昭和八年国際連盟を脱退、次第に国際社会において孤立化していきました。
昭和七年の五・一五事件、昭和十一年の二・二六事件は日本の軍国化を推し進め、一方、ドイツとの防共協定締結などが国際緊張を激化させ日本は軍需産業と国防予算の拡大をはかりながら準戦時体制をかため、遂に昭和十二年七月の日華事変へ突入することになったのでした。
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6.直方機械工業組合の発足 |
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時代は戦争へ戦争へと激しく動きつづけ、軍需産業は拡大の一途をたどりはじめました。石炭需要の増大は直方鉄工界に反映し、工場数は昭和六年の五十を底にして、昭和九年には八十二、昭和十年には百十二と増え、年産額も昭和六年の八十七万円に対して、昭和九年には四百四万円と飛躍的に成長しました。
工業組合法の施行と相まって、直方鉄工業組合強化の時が来たのでした。
昭和十年四月、「直方鉄工業組合」は「直方機械工業組合」として生まれ変わりました。「鉄工55年史草稿」によれば、「直方機械工業組合は昭和十年四月商工大臣の認可を得て、資本金五万円(一株五十円全額払込一〇〇〇株)の出資組織として設立し、初代理事長に福島正雄氏を、副理事長に佐田徳一氏を推し」たとあります。
なお「直方機械工業組合」は、昭和十五年花田勘平氏が理事長に就任した時点で、その名称を「直方鉱機工業組合」と改称しますが、その間の役員は次のとおりです。
直方機械工業組合の役員 |
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就任の年月 |
理 事 長 |
副理事長 |
第一次 |
昭和10年4月 |
福島 正雄 |
佐田 徳一 |
第二次 |
昭和11年3月 |
飯野 憲一郎 |
宗 万太郎 |
第三次 |
昭和13年4月 |
佐田 徳一 |
宗 万太郎 |
第四次 |
昭和14年3月 |
宗 万太郎 |
飯野 憲一郎、福島 正雄 |
第五次 |
昭和15年7月 |
花田 勘平 |
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(「鉄工55年史草稿」による) |
(「直方鉄工業組合」時代の役員は、組合長、副組合長となっていましたが、「直方機械工業組合」では、これが、理事長、副理事長にかわり、また新たに専務理事が設けられました)
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初代理事長 福島 正雄氏 |
第二代理事長 飯野 憲一郎氏 |
第四代理事長 宗 万太郎氏 |
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7.組合事務所の変遷 |
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「直方鉄工業組合」時代の事務所は、大正四年、直方町役場(大字直方字西殿町六四〇)内に設けられ、大正七年には商工会内に移されましたが、昭和十年、「直方機械工業組合」が発足するに及んで、本格的な事務所の建築が企画され、昭和十二年、総工費二万三千余円を投じた事務所(五十坪)、講堂(八十坪)、倉庫(八十坪)が、丸ノ内(直方警察署横東殿町四九八−一)に完成、昭和四十三年に現在地へ移転される迄の間、組合の中枢としての機能を果たしました。
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建設中の組合事務所 |
組合事務所 |
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大正2年の共進会当時の直方町の鉄工所 (山口重夫氏提供) |
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