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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕 |
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1.日華事変から太平洋戦争へ |
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太平洋戦争はじまる |
昭和六年に始まった満州事変は、上海事変へと飛火、日中間の衝突を繰り返しながら、昭和十二年七月、ついに日華事変に発展しました。
近衛内閣は、精神面での戦争遂行体制を確立するために、同年八月、国民精神総動員実施要綱を制定、十一月には日独伊三国防共協定を結び、国際社会で枢軸国ブロック(日・独・伊)対連合国側(米・英・仏)という二極化を推し進めていきました。
十二月には南京が陥落、日華事変は拡大の一途を辿り、長期化の様相を深めていきました。
経済面での戦時体制の確立のために、昭和十三年、国家総動員法が議会に提出されました。この法案は「戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ」、物資・生産・金融・会社経理・物価・労働など、経済のあらゆる分野にわたって、政府が命令し、強制的に統制措置を実施し、さらに言論の統制、労働争議の禁止もできるというものでした。
この立法は、戦時下における本格的な統制経済の道を開くものであり、十三年四月公布、五月から施行され、関連する多くの法律を生みました。
中国に対する日本の行動に否定的な米国は、十四年七月、日米通商条約を廃棄しました。
同年八月、ソ連と不可侵条約を結んだドイツは、九月にはポーランドに侵入、第二次世界大戦の口火を切りました。
昭和十三年、中国の重慶を脱出した汪兆銘は、十五年三月南京政府を樹立、欧州に於いては連合国側のフランスが同年六月ドイツに降伏するなど、戦況は枢軸国側に有利に展開する中で、十五年十月には大政翼賛会が発足、政治面での統制が出現、また十一月にはその産業版といわれる大日本産業報国会が成立するなど、総力戦の準備が着々と積み重ねられていきました。
昭和十六年、日米最後の交渉が始まりましたが、両国の意見は一致せず、六月には、ソ連が連合国側に加盟しドイツに宣戦、十二月、ついに日本は米国の真珠湾を攻撃、太平洋戦争に突入しました。
緒戦において日本は優位を誇りましたが、戦線の拡大にともない、暗雲がたれはじめ、昭和十七年、ガダルカナル島へ米国が上陸し連合国側の反撃がはじまりました。昭和十八年七月の日本のガダルカナル島からの撤退、同月ドイツ軍のスターリングラードでの大敗は、大戦の帰趨を決定する重大な出来事でした。
十八年九月、イタリアが無条件降伏し、枢軸国側の一角が崩れました。
二十年五月、ドイツが降伏、八月、広島、長崎に投下された原爆は、日本に止めを刺し、ポツダム宣言の無条件受諾により長い長い戦争が終結しました。
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2.国家総動員法 |
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昭和十二年の日華事変以後、日本の経済はほぼ準戦時体制に入りました。軍需資材の生産のために、工作機械、航空機、船舶、軽金属などについて製造事業法が制定され、これらの事業の振興、資金の集中が計られました。
昭和十三年には国家総動員法が成立、経済面での戦争へのレールが敷かれました。総動員法は、経済統制を主目的としたもので、関連する多くの法令、規則を生みました。
すなわち、昭和十三年には、重要産業統制法、鉄鋼配給統制規則、石炭配給統制規則が出されました。十四年には鉄製の不急不用品の回収がはじまり、臨時増税、米穀法、賃金統制令、価格停止令、木炭統制規則が公布されました。
十五年、アメリカが工作機械や飛行用ガソリンの輸出を禁止しました。この年には、各種の事業法、国策会社法、営団法が制定されました。
直方鉄工界も時代の動きを受けて、石炭機器製造から軍需品の製造へと流れを変えていきました。そして、総動員法関連法規に対するいろいろな対応を迫られました。
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3.直方技術員養成所の開設 |
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直方技術員養成所がおかれた福田鉄工所 |
昭和十四年三月、工場における中堅技能者の養成を目的とした技能者養成令が公布され、五十名以上の従業員を使用している工場は、中堅技能者の養成が義務づけられましたので、直方機械工業組合で検討の結果、「直方技術員養成所」が設立されました。これについて、「鉄工55年史草稿」は、「直方機械工業組合では福島鉄工所、福田鉄工所、高瀬鉄工所の三工場を選定し、同年(昭和十四年)四月から組合事務所楼上に事務所を併置し、右の三工場より中堅従業員七名宛を選び、同年六月三十日入所式を挙行した。
講師は日満技術員養成所の教官を嘱託して技術の養成に当たっていたが組合楼上では何分実務の養成に不便があり、理論と実務が遊離する欠陥があるので、市内津田町の福田鉄工所跡に独立した養成所と寄宿舎を建設し、翌十五年四月一日開所した。
実務用の諸機械は前記の三工場から持寄り養成に当たった結果、理論と実務が有機的に確立した教育を施すことが出来るようになり、翌十六年三月には東亜重工業株式会社、株式会社岩本鉄工所、直方機械製作所、株式会社大同鉄工所、九州輸送機株式会社、太田清鉄工所の六工場がそれぞれ指定されたので、以上の九工場が各五千円宛出資し、同年六月、実務用の諸機械八台を購入し、翌年七月には講堂を建設して女子製図工の養成にも当たり、相当の成績を挙げていたが、昭和二十年八月十五日の終戦直後、養成令が廃止されたので、同年十一月解散するに到った」と、その経緯を述べています。
なお、直方技術員養成所の所長および副所長は次のとおりでした。
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就任年月 |
所 長 |
副所長 |
第一次 |
昭和15年4月 |
福島 正雄 |
高瀬 茂一郎 福田 照久 |
第二次 |
昭和19年4月 |
福田 照久 |
福島 正雄
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(※ 直方技術員養成所の教官は、日満技術員養成所の教官が兼務したとありますが、日満技術員養成所とは、正式の名称は「九州日満鉱業技術員養成所」で、略して「日満学校」と呼ばれていました。昭和七年建国された満州国の地下資源の開発のための技術員を養成する目的で設置されたもので、昭和十四年二月、直方市商工会議所内に事務所が設けられ、四月第一期生が入所しました。全寮制で、仮教室は直方機械工業組合会議室、仮寮舎が直方市北小学校内に建てられました。十五年二月には、知古に新校舎が完成し移転、以後、昭和二十年九月の閉校までに約七〇〇名の技術者を送り出しました。知古の養成所跡は現在直方第三中学校として使用されており、養成所自体は筑豊鉱山学校〔現筑豊工業高校〕と合併した形で現在に生きつづけています)
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4.青年学校における技能教育 |
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産業教育上の見地から学校教育を補完するためにつくられた実業補修学校と、勤労青少年の心身の鍛練を目的とした青年訓練所が統合され、青年学校令のもとに義務制の青年学校が発足したのは昭和十四年四月でした。
直方市においても、直方高等国民学校と市立直方青年訓練所が統合され、直方市立青年学校が生まれました。場所は直方高等小学校(頓野字西尾、現直方二中)内でした。普通教科のほかに、職業科(商業、農業、工業、工芸)が課され、一部不足の教室は直方機械工業組合事務所などを使用しました。
校 名 |
場 所 |
生徒数 |
設置者 |
私立野上青年学校 |
下新入 |
約 90 |
野上鋳鋼所 (野上 辰之助) |
私立日東青年学校 |
下境日焼 |
約 100 |
日東製作所 (福田 照久)
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なお、公立の青年学校のほかに、次のような私立青年学校が設けられました。
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5.指定工場 |
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準戦時体制のもとに経済統制が強化されるに従って、資材、副資材、電力、燃料などを重点的に分配する目的で、各種の官庁などによる工場の指定が行なわれました。
まず、昭和十四年には商工省から次の工場が炭=マルタン=協力工場として指定されました。
一、商工省指定工場
1 株式会社直方製鋼所
2 東亜重工業株式会社
3 国広歯切工場
4 北九州鉱機株式会社
5 九州輸送機株式会社
6 高宮鉄工所
7 岩本鉄工所
つづいて二十三工場が福岡商工局の指定工場となりました。
二、福岡商工局指定工場
1 福田鉄工所
2 山部鉄工所
3 筑豊鉄工所
4 石橋製作所
5 高瀬鉄工所
6 直方機械製作所
7 日本タイヤ工場
8 日ノ出鉄工所
9 伊藤鉄工所
10 秦鉄工所
11 田才鉄工所
12 若林鉄工所
13 隈井鉄工所
14 R・T機械製作所
15 達見鉄工所
16 新興工作所
17 山口鉄工所
18 飯野鉄工所
19 内藤鉄工所
20 柴田鉄工所
21 太田清鉄工所
22 渡辺鉄工所
23 渡辺製罐工場
昭和十五年には、陸軍および海軍による監理工場の指定が行なわれました。
三、陸軍管理工場
1 高瀬鉄工所
2 福島鉄工所
3 福田鉄工所
4 直方鉄工所
5 大塚鉄工所
四、海軍監理工場
1 飯野鉄工所
2 山部鉄工所
3 九州輸送機株式会社
4 東亜重工業株式会社
5 国広歯切工場
これらの監理工場では、砲弾、手榴弾、焼玉エンジン、飛行機および高角砲の部品、制水弁などの軍需品が製作され、また主要工場には監督将校が配置されて増産を督励しました。
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