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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕 |
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6.リンク制法制化運動 |
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リンク制とは炭坑機械の修理など、特に認められた製品の製作の場合に限り、それに必要な銑鉄や屑鉄を、配給切符によらず、頼んだ炭坑から直接工場へ現物で渡すことができる制度です。
リンク制法制化運動は、直方を中心に進められ、全国に拡大して成功したものですが、「直方鉄工65年史草稿」は、その間の事情を、「その頃、戦時物資統制令が公布され、物品の売買が非常に不自由になった。鉄工業界でも、前記陸軍海軍の監理工場及び炭協力指定工場以外の一般工場では、原材料の入手が困難となり、配給切符以外は法網をくぐって闇ルートにたよるほかなかった。
これに伴うトラブルは極めて多かったが、よく苦難を越えて、間接的に軍需の下請及び炭坑機器の製作に精進し、協力した。
もちろん、鋳物用銑鉄並びにコークスも統制された。ここに於いて直方機械工業組合は全国の鋳物同業団体、日本鋳物工業会に『檄(げき)』を飛ばして、全国的運動を展開、政府に対し統制緩和方を要望した結果、『リンク制』が法制化され、ひとり直方の業者のみならず、全国同業者斉しく操業の容易を得た。
このようなことから工場の中には、注文者材料もちによる工賃仕事に転じ或は従業員を伴い出張現場作業に従事する向きも出た」と述べています。
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7.軍需景気と労働力の不足 |
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この時代の直方鉄工界は石炭から軍需へ、大きく流れを変えながら、工場数、年産額ともに飛躍的に増加しました。すなわち、表\に見られるように、工場数は二百を突破、年産額も一千七百二十一万円になりました。「直方文化商工史」は、この時代の直方鉄工界の盛況と労働力不足について、
「直方鉄工界はいよいよ仕事が忙しくなり、十七年には工場数百六十四をかぞえて、工員は三千五百人を突破した。業界未曽有の盛観である。しかし戦線の拡大に伴い、各工場の熟練工たちは軍籍にある限りほとんど戦場に駆り出され、十八年から十九年とだんだん戦局が苛烈化するにつれて各工場とも人手が足りなくなってきた。市内の商店界から、花柳界から、凡そ時局産業に縁のない多数の人々は、法の命ずるところに従って、市周辺の炭坑や市内の軍需工場に狩り出された。馴れぬ手つきで旋盤に取り組む番頭、小僧サン。鋳物砂にまみれる芸妓、仲居サン―こんな俄(にわか)づくりの“産業戦士”たちを加えた」
と、伝えています。
表\ |
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工場数 |
年産額(万円) |
昭和12年 |
113 |
396 |
昭和13年 |
168 |
593 |
昭和14年 |
169 |
1,149 |
昭和15年 |
168 |
1,327 |
昭和16年 |
209 |
1,721 |
(直方市編 鉱工業実態調査報告書より)
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工場で働く女学生 |
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8.直方工業栄養食配給組合 |
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「直方機械工業組合の付帯事業として、昭和十二年十一月、栄養食組合を設立、直方市下山部の福島正雄氏所有の土地を無償提供を受け、総工費約七千余円を投じ、事務所並びに炊事場を建設し、加入工場四十工場の五百余名の見習工及び工員に対し給食を開始した。
そもそも栄養食組合の設立は、昭和十二年四月中旬、佐田徳一、福島正雄、花田勘平の三氏が川口市の鋳物工場視察に赴いた際、川口市に於いて栄養食組合を設立して給食を行なっていた成績が、きわめて良好であった事実に鑑み、帰直後、佐田徳一、福島正雄、小野原己三氏などが中心となり、栄養食組合の設立の計画を進め具体化したものである。
設立と同時に、初代組合長に福島正雄氏を推し発足したが、漸次加入工場が増加し、昭和十四年には七十二工場、給食人員九百名を突破するの隆盛を呈するに至り、見習工制度の統一を確立し、相当見るべき成績を挙げていたが、昭和十七年九月米麦統制令の強化に伴い惜しくも廃止せざるの止むなきに至った(鉄工55年史草稿)」
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就任年月 |
組合長 |
第一次 |
昭和12年11月 |
福島 正雄 |
第二次 |
昭和15年10月 |
小野原 己三 |
第三次 |
昭和17年4月 |
隈井 源一郎 |
直方工業栄養食配給組合の組合長は次のとおりでした。
なお「直方市史下巻」によれば、昭和十四年に直方市の鉄工組合事務所内の仮教室で開講した九州日満鉱業技術員養成所(日満学校)の寮生徒に対する給食も、同十五年二月新校舎が完成するまでの間、山部の栄養食組合で作られていたということです。
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9.直方砿機工業組合と直方砿機工業施設組合 |
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昭和十年スタートした直方機械工業組合は、昭和十五年七月花田勘平氏が第五次の理事長に就任した時点で、「直方砿機工業組合」と改称しました。
さらに直方砿機工業組合は、新しい商工組合法が制定された昭和十八年に、新法に則して「直方砿機工業施設組合」に改組されました。
新法と施設組合との関係については、全国中小企業団体中央会版の「中小企業組合制度史」が、次のように述べています。
「昭和十八年に新しく商工組合法が制定された。それとともに、従来の工業組合法、商業組合法、重要物産同業組合法は、いずれも廃止され、工業組合、工業小組合、商業組合、商業小組合、同業組合、重要産業団体令による統制組合は、それぞれ解散または商工組合法による組合へと組織替えされることになった」
「商工組合法に基づく組合には、統制組合と施設組合とがある。統制組合は、『国民経済ノ総力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル為、商業、工業又ハ鉱業ノ統制ヲ図リ又ハ之ガ為ニスル経営ヲ行ヒ且当該事業ニ関スル国策ノ遂行ニ協力スルコトヲ目的』とした。それは国策遂行の協力機関であり、公法人的性格をもつものであって、もはや協同組合の性格をそなえていないものであった」
「商工組合法に基づく、もう一つの組合である施設組合は、統制組合と異なり、協同組合的色彩の強い組合であった」
このように、新法に基づいて生まれた直方砿機工業施設組合も、戦局の悪化と、産業統制の強化にともなって、活動の分野を狭められ、独自の活動も意のままにならず、殆ど有名無実の状態に陥りました。
なお、直方砿機工業組合時代の理事長は花田勘平氏、昭和十八年に改組されてできた直方砿機工業施設組合の代表理事は、隈井源一郎、佐々木松次の両氏でした。
組合の停滞状態とは反対に、活発な活動を行なったのが産報直方工業部会でした。
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10.大日本産業報国会の発足 |
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大正八年、労資協調の立場から労働問題を扱う半官半民の「協調会」という団体が組織されました。
協調会は、昭和十三年に「時局対策委員会」を設け、協調から一歩進めた「労資一体」を指導精神とし、事業主を会長、職員労働者を会員とする企業単位の全体組織をつくることにしました。
この流れが発展して、同年七月、産業報国連盟が結成されました。「産報運動」と呼ばれたこの頃の運動は、精神訓話・懇談会・宮城遥拝・黙祷などの精神運動を内容としていました。
産報の組織は全国に広がりました。それをふまえて、昭和十五年十一月、政府は「勤労新体制確立要綱」を決定、これまでの官民一致の国民運動を政府が直接指導することにしました。
要綱は「全勤労者をして創意と能力を最高度に発揮せしめると共に勤労者の育成・培養、適切なる配置を計り、以て勤労動員の完遂を期」するという内容のものでした。
これに基づいて、同年十一月二十三日、大日本産業報国会(産報)が創立されました。
産報は政治の面で大政翼賛会が果した役割を、産業の面で果そうとする運動体であったということができます。
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産報直方工業部会長 小野原己三氏 |
直方に於いても、その下部組織である産報直方工業部会(部会長 小野原己三氏)が結成され、活発な運動を展開しました。部会役員は直方警察署の工場係と連絡を取り合って、各工場を巡回し、職場常会を開き、講演や紙芝居などによって士気のミ揚に務めました。この精神作興運動は終戦によって終わり、産報は昭和二十年九月解散しました。
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市の木…泰山木 モクレン科の常緑高木で成長すると高さ20mにもなります。(昭和50年4月10日制定) |
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