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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕 |
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苦難の再出発
昭和二十年八月、太平洋戦争は日本の敗北によって終わりました。
連合国側の代表として、米国が日本を占領し、連合国軍総司令部(GHQ)は、財閥解体、農地改革などを次々に指令しました。
日本政府は、破壊された経済の再建に乗り出し、鉄鋼、石炭、肥料、電力などの重要産業に資材、資金を重点的に投入する、いわゆる傾斜生産方式を推進しました。このため、一時的に炭坑は景気を回復しましたが、二十三年には占領軍の経済九原則による金融引き締めによって再び不況の波をかぶりました。
昭和二十五年の朝鮮動乱は、日本経済に復興の活力を与えましたが、石炭産業は動乱後石油を中心としたエネルギー革命の波を受け、衰退の一路をたどりました。
石炭産業の衰退は直方鉄工界に深刻な打撃を与えました。石炭と盛衰をともにした直方鉄工界は、敗戦からの立ち直りと、石炭産業依存体質からの脱却という二重苦の困難な道を歩むことを余儀なくされたのでした。
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1.商工協同組合法の誕生 |
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昭和二十一年十一月、商工協同組合法が施行されました。
太平洋戦争末期から、戦局の悪化、産業統制の強化にともない、独自の活動分野を失った直方砿機工業施設組合は、敗戦によって全く有名無実の日々を送っていましたが、この商工協同組合法の誕生に触発されてようやく、戦後の虚脱から抜け出し、直方砿機工業協同組合として再発足することになりました。全国中小企業団体中央会が出版した「中小企業組合制度史」は、組合の再出発を促した商工協同組合法成立の経緯を次のように述べています。
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「中小企業組合制度史」 |
「ポツダム宣言の受諾によって、第二次世界大戦は終結した。ポツダム宣言は、日本における民主主義的な傾向の復活とその強化を要請した。総司令部は、昭和二十年十一月六日の『持株会社の解体に関する覚書』により、産業民主化政策の一環として、@財閥の解体、A私的独占助長方策の撤廃、B自由競争体制の確立、などを日本の政府に求めた。具体的には、@戦時経済を平和経済に復修させることを目的とするもの、A終戦後における混乱の収拾を目的とするもの、B平和経済再建のための民主化恒久立法、などの法律が制定された。
こうして戦争の終結とともにわが国は、民主主義を基調とする平和国家として再建されることになった。中小企業に関する組合制度も、民主主義の観点から再編成されたのは当然であった。すなわち、従来の組合制度にみられた同業組合ないし統制組合的性格をもった組合は、存続することはできなかったからである。しかし、終戦後の経済混乱、物資の需要が均衡をえない終戦直後の事情から考えて、一時的な統制はやむをえないものであったから、中小企業に関する組合のあり方をめぐって、当然さまざまな議論があった。問題は終戦後の経済事情にかんがみて統制はなお継続しなければならない必要から、従来の商工組合法を一応存置し、これに根本的改正を加えるべきか、あるいは組合法を全く別の見地から新しく制定すべきかということ、さらに今後の組合は業界の中核団体として自主的統制にその機能の中心をおくか、それとも全くの協同組合として事業の合理化をはかる制度とすべきかということであった。結局、民間団体による統制は、独占禁止の趣旨に反し、かつ、自由な取引を阻害するおそれがあるので好ましくないとされ、組合員の事業の合理化に主眼をおく商工協同組合法が制定され、昭和二十一年十一月から施行されることになった」
また、この時期の日本の経済上の問題点にふれ、「敗戦後の極度の混乱状態から復旧への、戦時経済から平和経済への転換がその中心課題であった。しかも、金融機関再建整備法、企業再建整備法にみられるように、インフレーションの抑制と擬制資本の整備とそれにともな企業整備は急務の課題であった。他方、戦後のわが国の大企業は、財閥解体、賠償施設の撤去、工場施設の荒廃などもあって、深刻な状況におかれていた。こういう状況のもとで、こまわりのきく中小企業は、産業の回復と国民生活の安定をになうものとして期待されていた。しかし、中小企業は技術、経営、資金などの面で大きな欠陥をもっていたので、その改善、合理化が必要とされていた。そこで、この要請に応えて中小企業の技術、経営、資金などを、組織化によって強化するために商工協同組合法が制定された。要するに商工協同組合法は、戦後の日本経済復興のにない手としての中小企業の役割を重視し、その振興をはかるために自主的協同化による合理化、能率化を政策的に推進させようとするものであった」としています。
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2.直方砿機工業協同組合の出発 |
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商工協同組合法の施行を受けて、直方砿機工業施設組合は、昭和二十一年十二月臨時総会を開き、協同組合法第七六条に基づく協同組合への移行を決議し、その準備委員十七名(委員長 飯野憲一郎氏)を選びました。
昭和二十二年二月、直方砿機工業施設組合は再び臨時総会を開き、準備委員から提出された直方砿機工業協同組合の定款を審議し、これを可決、新組合の理事十三名(佐田徳一、飯野憲一郎、隈井源一郎、高口定三、川原三郎、佐々木松次、南部憲正、高原彦三郎、吉田半三郎、渡辺俊次、安永英次、安部貞右衛門、小川幸一)、監事三名(大田三郎、堀江積、篠塚幸四郎)を選び、ここに、直方砿機工業協同組合が誕生し、戦後の苦難の道の第一歩を踏み出したのでした。
なお、新しい定款審議の際、「直方の工場は石炭機械のみを作っている様な印象をうける表現になっているので、他の機械もつくっていることを知ってもらうような表現にせよ」という問題提起がなされ、色々議論があって、「石炭機械と重要産業機械」を作っているという表現にあらためられました。
また、この総会では、新しい協同組合の事業計画案が検討され承認されました。
直方鉱機工業協同組合の事業計画 |
新しく誕生した直方砿機工業協同組合の事業計画は次のとおりでした。 |
一、 |
諸資材の確保 |
銑鉄、鉄鋼、非鉄金属、石炭、コークス、木炭、薪、油類、其他優先的割当配給の確保に努む |
二、 |
購売事業の経営 |
組合員の作業上必要物資の一括購入に努め、迅速に計画配分の実を挙げ、作業及生活上の隘路打開に邁進す |
三、 |
連絡調査統計の強化 |
諸官庁並に石炭関係機関との連絡を緊密にし、諸調査統計等の作製をなし斯業の推進に努む |
四、 |
金融調整 |
事業運営上必須なる資金の融通は益々逼迫するの傾向あるを以て、之が解決に付充分なる措置を講ず |
五、 |
労務問題の調整 |
現在の労務問題に関し、労資提携の上、之が調整を計り、作業能率の増進に努む |
六、 |
電力輸送等問題の処理 |
電力危機突破並に輸送に関し、之等関係方面と接渉を続け制限緩和の効果を挙げ、機械製作修理の生産障碍の排除に努む |
七、 |
中小工業発展推進運動 |
平和日本再建の鍵を握る中小工業の擁護のため運動を展開し、以て石炭増産に寄与す |
八、 |
其 他 |
中小工業の経営技術の改善発達に必要なる事業を行なう |
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3.労働運動の激化 |
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昭和二十年十二月、労働組合法が公布され、各地に相次いで労働組合が結成されました。直方においても社会党の田中儀一、安田静雄の両氏を中心に鉄工労働者の組合結成が計られ、直方鉄工労働組合が誕生しました。直方鉄工労働組合は急激に左翼化し、市内の鉄工所でつぎつぎに労働争議が発生し、工場主の心胆を寒からしめました。
白ハチ巻の労組の隊伍がスクラムを組み、ジグザグコースで街頭をデモって市民を驚かしもしました。
争議は更に拡大しようとしましたが、組合内部に批判が起こり、ついに左右に分裂、脱退派は筑豊鉄工労働組合を結成、以後数年にわたって対立をつづけました。これによって、直方鉄工界を揺るがした労働攻勢は下火となりました。
これを機に、直方砿機工業協同組合の指導のもとに、工場主の協議会がもたれ、労働問題についての討議が行なわれました。そして、
イ、就業規則
口、福利施設の拡大
ハ、賃金問題
の検討がなれさました。特に賃金問題は他工場との関連が深いので、労働者が少しでも高い賃金を求めて転々する状況を防止し、高賃金によって引き抜きを行なうことのないよう、最低賃金制を定め、年齢経験別賃金表、昇給基準表などを統一し、また、安全教育の強化についても努力するなどが話し合われ、労働組合との話し合いによる労資協調路線がしかれました。
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4.天皇陛下の御巡幸 |
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炭砿保守機器博覧会 |
昭和二十四年五月十四日から、直方市で炭礦保安機器博覧会が開かれました。筑豊鉱山学校の直方特設館には、六十七工場の約四百点の炭鉱機器が出品され、直方市民はもちろん、九州、山口の各鉱山よりの技術専門家などの視察参観が後を絶たず、直方の鉄工業の宣伝に役立ちました。付随して、全九州炭坑対抗相撲大会も関催されました。
五月二十日には、九州御巡幸中の天皇陛下が直方市に立寄られました。陛下は、まず、北小学校校庭での直方市民の奉迎式に臨まれ、行実重十郎市長の音頭による「天皇陛下万歳」の唱和を受けられ、のち、頓野に向かわれ、爆発試験所(工業技術庁鉱業技術試験所九州支所)で坑内爆発実験を見学され、つづいて、鉱山学校で、直方鉄工界の鉱山用諸機械を御覧になりました。御案内は佐田徳一市会議長、説明役は大田三郎氏(東亜工業株式会社社長)でした。また、校庭において、工場主および優良工員にお言葉を賜わりました。
この時の様子を、筑豊鉱山学校本科十回生の宗和範さんは次のように記しています。
「天皇陛下御巡幸の途次、昭和二十四年五月二十日学校に来られるので奉迎に出て来いと通知があり、勝田支部を代表して出かけて行った。我我卒業生は運動場に整列、香月から松井守朔君が嬢チャンを連れて来ていた。
先ず御車で爆発試験所へ行かれ御視察の後、お歩きになって学校へ来られる。本館横で再び御車を召される時、合図をするから一斉に万歳をしましょうと、市の係の人が触れて歩いていた。
救護所長の毛利さんらは制服で、二、三の炭坑の救護隊と共に、試験所前でお迎えと走って行かれた。よい天気で幸いだったが待っている間が意外に長いように思われた。
予定より大分遅れて御召車が前を通って試験所へ入った。炭じん爆発試験が仲々着火しなかったと後から聞いたけれど、試験所の御視察を終えられて門を出られると、先刻の注意どころか一斉に日の丸の小旗もちぎれよと万歳万歳の声。いよいよ我々の前に来られるのだ。御先導申し上げる小西理事長の、『鉱山学校の卒業生たちで、筑豊の炭坑で活躍しています』との説明に、『ああ、そう』とうなずかれる御声を身近に拝した。
道路のすぐ側で一番前列に立っていた為、ドンドン後から押されたけれど、余りの感動にじっと立ちつくしたままだった。学校に入られた陛下はやがて御車を召され御出発になった。佐々木先生と中西先生が、手を取り合って『良かった、良かった』と涙ながらに喜んでおられたのが印象的だった」(筑豊工業高等学校「風雪五十年」より)
(なお、爆発試験所は現在、公害資源研究所九州石炭鉱山技術研究センターになっています)
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