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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕 |
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7.直方鉄工協同組合への改名 |
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直方砿機工業協同組合は、昭和二十八年四月の通常総会で、組合名を変更して、直方鉄工協同組合とする事を決定しました。
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組 合 名 |
明治33年〜 |
直方鉄工同業組合 |
大正5年〜 |
直方鉄工業組合 |
昭和10年4月〜 |
直方機械工業組合 |
昭和15年7月〜 |
直方砿機工業組合 |
昭和18年〜 |
直方砿機工業施設組合 |
昭和22年3月〜 |
直方砿機工業協同組合 |
昭和28年4月〜 |
直方鉄工協同組合 |
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この名称変更は奇しくも、エネルギー革命による石炭産業の没落を予言し、直方鉄工界の転身―石炭機器製造から一般産業機器製造へ機種の切替へ―を先取りする結果となりました。
直方鉄工協同組合への名称の切替えは、昭和二十八年四月二十日付で行なわれ、以後、現在までその名称が使用されており、最も長く使用された名前になりました。
なお、明治三十三年に直方鉄工同業組合という名称で発足以来、八十年間に七つの名称を使用したことになりますが、それらをまとめてみますと次のとおりです。
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8.日韓貿易展覧会入賞 |
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日韓貿易展の記事 |
昭和二十八年十一月十三日から十日間、東京日比谷公園で日韓貿易展覧会が開かれました。
直方鉄工協同組合からは、代表として、溝口鉄工所(知古泰平町)の「高速度自動制てい機」、大同鉄工所(知古)の「ユニバーサル・ウインチ」、直方機械製作所の「MH型小型巻揚機」の三点が出品されましたが、いずれも金賞に入賞し、直方鉄工業の声価を全国的に高めました。
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9.直方計量所の新設 |
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旧直方計量所 |
昭和二十八年四月の組合の通常総会において、年度事業計画の一つとして、貨物自動車計量所の設置が承認され、翌二十九年、市内下老良(市役所通り)の三差路のはずれに、計量所が開設されました。計量機は、二本秤式二〇トン、最小目盛り一〇キログラム、経費は百七十万円(うち県および市の助成金七十万円)でした。
この計量所は、鉄工業者だけでなく、一般の重量検査にも利用され、鉄屑類や石炭等をオートバイ、馬車、トラックに積んだまま計量できるし、荷物の受け渡しが正確になるとして、利用者も年年増加していきました。
その後、昭和四十三年には、組合事務所が現在地(直方市殿町四―二二)に移転したのにともなって、計量所も移転、新設のガソリン・スタンドとともに、組合事務所前に設置されましたが、現在では秤量三十トンの秤量機が設備されています。
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10.鋳物砂処理場の建設 |
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昭和二十六年、組合内に鋳物協議会が設置されました。これは組合内の鋳物業者によって構成され、コークス、薪、その他の鋳物関係材料の共同購入の方策を確立し、業者の便益の途を計る目的で設置されたものでした。
鋳物協議会はその目的にそって研究、検討をつづけましたが、特に、鋳物砂の処理場を共同施設として設ける成案を得ました。
共同施設としての鋳物砂処理場の案件は、昭和三十年五月の組合定期総会に提案され可決されました。
三十年十一月には、臨時総会が開かれ、共同施設鋳物砂処理場設置にともなう資金計画が提案され、石橋清一理事長が、「定時総会に於て事業計画として御承認を願っておりました鋳物砂処理機械については、其の後数回、事業委員、理事の手により設置機械の性能、能力、価格、場所、利用度の研究、原砂の採集場所の実地踏査など各方面に亘り視察検討の結果、大体の成案を得ましたので、とりあえず第一次計画と致しまして、サンドミル一台、サンドフレンザ一台、移動式電動篩機一台、計三台を設置したいと思います。
設置場所は直方市大字川久保に設置致したいと思います」と、説明、さらに予算について、「サンドミル一台、四十六万五千円。サンドフレンザ一台、三十二万円。移動式電動篩機一台、二十二万円。計百万五干円となり、施設、建物、附帯設備、その他の諸費用で合計百三十五万九千円となり、機械代金の半額を県に補助申請」していること、「直方市からも附帯設備について助成方をお願いしていまして、応分の御援助を戴ける見込」であることを補足しました。
また、渡辺事業委員長は鋳物の原砂についての質問に対して、「最も手近くそして豊富にある感田砂を主体にする考えであります。肌砂は研究苦心を要する所で、重点をおいて研究をするはずです。山砂その他の砂などの事も話合いに出ております」と答えました。
資金計画についてのこの提案は、この施設による鋳物場の砂の改良によって、鋳物製品が良質となれば、機械加工業者にとっても、需要家に安心して納められることになり、直方製品への信用も高まるという賛成意見などもあり可決されました。
その後三十一年一月の理事会で、鋳物砂処理機械の設置場所は直方市大字知古五六六番地、建物三十六坪、敷地三十坪、貸借料は月額四千円との報告があり承認されました。
鋳物砂処理場は三十一年より使用が開始されました。その成果について、「直方鉄工65年史(中西)草稿」は、「それまで直方市の鋳物工場は、若松市二島や、市内感田から出る鋳物砂を使用してきたが、砂の精度が粗雑であるため、良質の鋳物製品の生産に不備欠点があった。
しかし、この処理場の出現によって、極めて短時間に処理がなされ、経費も安価で済むのみならず、砂の精度の細密化により鋳物製品の向上に格段の成果をおさめている」と述べています。
なお、鋳物砂処理場は、昭和三十五年まで共同使用され、一応の目的を達して廃止されました。
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11.組合事務所の移転 |
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現在の組合事務所 |
昭和三十六年五月の通常総会に、「組合の建物も三十年前建設当時より情勢の変化がありますので、適当な時期に現在地及び建物を売却の上適地に新建設したらと思います」という動議が出され可決されました。
一つには、組合事務所(直方警察署横)と計量所とが離れており、計量のたびに組合事務所から計量所まで事務員が行かねばならないという不便があり、事務所と計量所を同一場所にした方が良いという事情もあったからでした。
組合は、事務所の移転先について、種々検討していましたが、昭和四十一年、直方魚市場が殿町から下境字高津に移転したので、その跡地(市有地)を買収して組合事務所を転ずることになりました。土地は七一二平方メートルあり、旧魚市場の建物の買収、土地の買収、建物の増築費をふくめての金額は約一千二百万円で、旧鉄工組合事務所及び土地は九百万円で売却されました。
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組合立直方給油所 |
昭和四十三年五月、新装なった組合事務所へ移転が行なわれました。
同時に、組合事務所の建物の前に計量所を移転させ、ガソリン・スタンドを新設して事業を拡張し、組合員の便宜を計ることになりました。
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12.自動車運転講習場の設置 |
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昭和三十七年の組合通常総会で、工場従業員に自動車運転技術を習得させるため、組合の事業として、自動車運転講習場を設立することが提案され、可決されました。
講習場は下山部明神池の市有地一五〇〇坪を借りうけて造られ、組合専属の指導員による、普通車、軽自動車の運転技術の指導が行なわれました。
工場従業員にとっても、身近な講習場として喜ばれ、工場側も、免許をとった従業員が資材、納品の運搬にすぐ役立つことから好評を得ました。しかし、産炭地振興対策の一環として、産炭地域振興事業団の手で明神池工場団地が造成されることになり、昭和三十九年、土地は市に返還され三年間に約五〇〇人の合格者を出した講習場が閉鎖されました。
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13.勤労青年共同宿舎山部寮の建設 |
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勤労青年共同宿舎山部寮の内部 |
昭和四十六年一月の組合の臨時総会に、「勤労青年共同宿舎建設の件」が提案されました。
求人活動の一環として前年行なわれた、組合と中学校との連絡会において、中学側から、「現在の生徒はデラックスな寮を希望している」旨の発言がありましたし、組合の各部会での話し合いでも、若い人材が集まらない、その理由の一つに立派な寮がないからだとの意見が出されておりました。
人材確保のため、共同宿舎の建設は欠くことのできない条件と考えられたからでした。弘理事長が、建設の必要性を強調、建設資金については、土地が一千万円、建物が六千万円で、県から二五%、市から二五%、残り五〇%を住宅金融公庫より借用し、五〇年間で返済すると説明しました。しかし、討議の結果、「本問題は極めて重要議案であるため、特別委員会を設置し、調査及び研究して来る通常総会に提案すること」になりました。
共同宿舎建設の件は、その後、総会の承認を経て、県の指導のもとに進行していきました。
設置場所は、直方市大字上新入明神一六四七―四。工事は昭和四十七年五月に始まり、四十八年一月に完了しました。
五階建の近代的建築で、寮室が五十、百名の寮生を収容することができますが、その内容は次のとおりです。
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勤労青年共同宿舎 山部寮
敷地面積 |
2,693.03平方メートル |
建築面積 |
477.81平方メートル |
建築延面積 |
1,600.65平方メートル |
施設 |
一階 |
食堂、集会室、厨房、浴室、休養室、寮室(2) |
二階 |
寮室(12)・物干場 |
三階 |
寮室(12) |
四階 |
寮室(12) |
五階 |
寮室(12) |
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