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100周年記念誌より(発行:2000年11月) |
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「筑豊の地は、今、炭坑景気で賑わっているそうだ! お前達二人や三人ぐらいどこか働くところがあるに違いない。 弟二人をつれて、何か職をさがしてくれ!」
祖父が当時15歳であった長兄である父、吉太郎に言った言葉である。 |
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吉太郎、直方の地へ |
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明治維新に続く廃藩置県後の黒田藩士たちは、刀を捨ててこれからの生活方法を否が応でも、何か求めなければならぬ運命に陥ったが、私の祖父、義郎もその一人であった。
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現在の西公園下 |
祖父は、福岡の舞鶴城下の西公園下の荒戸三番町で、「米屋」を始めたが、子供が四人、五人と増えるにつれ、武家の商法も手伝って遂に倒産した。
明治二十年頃のことである。
事実、筑豊は各地に炭坑がおこり、それに付随した修理工場、機械加工工場が「直方」を中心に開かれていた。
父は祖父より63銭をもらい、奮起して二人の弟をつれ、八木山の峠を越え、飯塚、小竹と訪ねて、やっとこさ「直方の新町」にたどりつき、或る鍛冶屋に年期奉公として住みついた。
筑豊鉄道の若松−直方間の開通は明治24年だから、当時は徒歩で行くしかなく、幼い二人の手をひいて大変だったと思う。
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藤鍛造所創立 |
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明治40年の初夏の頃、年期があけて当時のしきたりでお礼奉公も何年かつとめて、父は独立した。現在自宅前の茅野家の土蔵(現、手柴、稲田住宅の中間裏庭)を借受け、フイゴ(火をおこすために、手足で風を送る器具)を入れて「鍛冶屋」を始めた。
これが内藤鍛造所のルーツである。
赤地の現在の工場のまだ先、赤地方面に「海軍炭坑」があったが、その炭坑にカスガイ、ボールト等を納品していた。カマスに入れ、車力に積んで二人で引いて行く、私も時々車力に乗ってついて行ったものである。
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師、榎本千代蔵先生 |
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「カンちゃん、行こうや」
「首つりがあったげなき、行かんバイ」
私は小学校6年生の秋頃、友人カンちゃんを誘った。大正10年の冬、毎夜放課後、夜学に丸山の榎本先生の自宅に通ったが、門の坂の古井戸(新町踏切場)で首吊り事件があり、毎夜怖い思いで命がけで走り抜けた当時を思い出す。私の母校は直方南小学校で、担任は榎本千代蔵先生であった。先生は進学にとても熱心な方で、我々を励まし鞭撻された。放課後から夕方までと、夜は先生の自宅に呼ばれ、9時頃まで特訓を受けた。新婚早々の先生の家に多数押し掛けて、今、思えば何と心ないことだったろうか。
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大正10年直方南尋常小学校卒業写真 |
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