直方鉄工協同組合
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ある町工場の立志伝「明治から今日まで」
100周年記念誌より(発行:2000年11月)
人生塞翁が馬
 それから3年たった昭和4年の冬のことである。妹、マサエは熱心な金光教の信者であった。家事は妹がしていた。毎朝5時に起きて私の弁当を作り終わると、
 「ハダシ参りである」
 大雪の朝、
 「マーシャン、今日は止めときない、こんな雪降りに」
 止めても聞かない妹とは知っていたが、私は言った。それから4時間後の10時頃である。私の人生を左右するハプニングが起こった。
 その朝もいつものように私は弁当をぶらさげて仕事に出かけた。門前町の柴田鉄工所である。工場に宮田さんという老人の「棒心」がおられたが、私はその人の「向う打ち」である。くる日もくる日もボンコシを振るって、六分から七分のカラー、ナット類を手造りしていた。その日、雪で宮田さんは休まれていた。別のグループはベルトハンマー組で、その組も2人程休み、手が足りないので私がセットされた。
 朝から調子がおかしかったが、金敷の上の不安定な道具を直そうと手を出した一瞬、雪でぬれたロッドがブレーキがきかず落下した。ハンマー運転手もその日に限ってそわそわして注意が足りなかったせいもあったが、悪い時は重なっておこるものである。左指3本やられたが、2本はつながり、1本ですんだ。では、この怪我が何故私の人生を左右したかである。
 当時、日本は昭和7年上海事変、昭和12年日華事変、そして遂に昭和13年国家総動員法公布、重要産業統制法等が実施された。昭和17年頃より非常時色彩が濃くなり、商店の主人も番頭、芸妓、仲居に至るまで、続々と勤労報国隊として軍需工場に送りこまれた。私たち同年の人たちも技術者として徴用されたが、私は不具者として除外されたのである。
 軍需工場に送りこまれて家業をつぶした人、病気になった人、空襲でやられた人が数知れずいたが、幸か不幸か、私は怪我のおかげで自分の工場の家業に専念することができた。もし怪我が無かったら今の私はあり得ないと信ずる。真に何が幸いするか分からないものである。
青春時代
 さて、話はさかのぼるが、怪我をした21才頃から26才頃(昭和4年から昭和9年)の結婚までが、私のかりそめの青春時代である。
直方童心芸術研究会アスター社のメンバー
直方童心芸術研究会アスター社のメンバー

 当時、直方にはトップクラスの「ガルソンヌ社」という若人の文化人グループがあったが、私と友人2、3人はそれに刺激され、「直方童心芸術研究会アスター社」なるものをつくった。メンバーは正岡鴻一、正岡憲一、中村善四郎、牛島正、五郎丸進、その他二人であって、毎日仕事が終わって、毎夜、唄・おどりの振り付け等をして若き血を燃やしたものである。
 童謡は、「砂山」「まりと殿様」「雨降りお月さん」「あの町この町」等白秋や雨情ものばかりで、他に「鉾をおさめて」「ハブの港」「カラタチの花」等の藤原義江ものである。子供たちの中のスターは香原姉妹で、唄は青木チヨ子(代書人)さんであった。私は藤原義江ものを稽古した。
 筑前宮田に「御宮座」という劇場がある。そこで第1回新作発表会をやった。楽器はオルガンとバイオリンだけ、照明は手作り、レジャーのない時でお客は超満員であった。
 「オーイ、声がこまいぞー、きこえん、かわれー」
 今のようにマイクはなし、私の「生の声」はとどかない。へこたれたものである。よくも厚かましくも出たものだとつくづく思う。
節子と結婚
 昭和の初期、新町一丁目(今の三丁目)に飯野彦太郎さんといわれる顔役がおられたが、「日若踊り」の世話もされていて、第1次勃興時代を築かれた方である。
岡部長次郎氏(左)吉太郎氏(中央)
岡部長次郎氏(左)吉太郎氏(中央)

 メンバーは、
 内藤吉太郎(三味線・唄)
 岡部長次郎(鼓・太鼓)
 川原某(三味線)
 柴田佐平(三味線)
 小西ヒサシ(唄)
 青木年郎(唄)
 中村平三郎(三味線)
 竹下三郎(鐘)
 他に二〜三人

 直方の日若踊りに三味線、太鼓等の鳴物はつきものだが、父は三味線、唄が得意で鼓、太鼓の岡部長次郎さんとは、博多生まれの同郷のよしみもあり、ウマが合って気のおけない仲だったらしい。
岡部さんは、妻、節子の父である。
 「長さん、お前んとこの節ちゃんば、うちの研一の嫁にくれや」
 「そーなー・・・・・・よかたい」
 親たちは早くから勝手にきめていたらしいが、女学校を出て、若松のある専門学校に通ってた節子に父は何やかと買ってやりして、懐柔作戦を展開した。私には床屋の髪つみ銭しかくれなかったが・・・。
 「うちゃ、そげんとこ行かんばい。知らん。」
 結婚話をきかされて、彼女は強引に反発した。
 「そげん言うなら一寸行こうたい。行きゃいいんでしょ。行きゃ」
 半ば自棄糞になって、新町へやってきたものである。
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