直方鉄工協同組合
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ある町工場の立志伝「明治から今日まで」
100周年記念誌より(発行:2000年11月)
ハンマーの設置
ボードドロップハンマー 昭和40年頃
ボードドロップハンマー 昭和40年頃

 昭和12年5月、大阪秋修ポンプ店より切断機一台を購入し、同年10月同店より剪断機を購入して開始したリンクチェーン作りから又仕事の内容が変わり始め、どうしても「ハンマー」が必要になってきた。
 溝堀の元「南鑢」(ヤスリ)工場の付近に長尾久吉という人がハンマー1台据えて、自分でコトコトやっておられたが、矢張り大酒呑みで中止されていた。私はふとしたことから或る木型老職人と知り合い、その人にその工場のハンマーの木型を写してもらい、鋳物工場、仕上工場等に外注して機械はできた。機械はできたが櫓を建てるのに家がバラック建てだったので、工場を建て替えねばならない。
現在はボードドロップハンマーに代わり、鍛造油圧プレスが活躍
現在はボードドロップハンマーに代わり、鍛造油圧プレスが活躍

 昭和12年10月、工場の棟上げの日、一人の従弟の面接をした。
 私の父は
 「棟上げの日に、こりや縁起が良いゾ」と非常に喜んだものである。冨田安男製造部長(元工場長)その人である。

電気不足

 戦後の日本経済の復興の鍵は、石炭の増産にあるという見地から、「石炭は堀まくれ」と大騒ぎし、直方の鉄工界も息を吹きかえしたが電力が不足、電気の配給制限があり、一日のうち何度も電気の大元を切って流さない時代があった。仕事がつかえても電気がこない。今から考えると嘘みたいな話である。
 私は一計を案じ、古自転車のタイヤを外し、ベルトをかけてファンを廻した。そして例の「英ちゃん」に踏ませた。時々居眠りするけど鋲焼き位は間に合った。戦後の物資不足時代の笑えぬ一こまである。
父そして節子
 こういう時世の混沌とした昭和22年12月22日の寒い冬の夜、私の父吉太郎は75歳でこの世を去った。何年か半身不随で寝たきりになっていたのです。戦前、戦後食料不足が続いたが、妻節子は頓野の
節子さんと研一氏
節子さんと研一氏

 「梨元」に買い出しの拠点を見つけて、父には米飯の不自由はさせなかった。風呂に入れたり、便所につれて行ったり、買い出しも行かねばならず、住み込みの食事の世話もする。大変な苦労を強いられて、よく頑張ったものである。父も満足して往生したものと思う。
 私の母コトは文盲で、昭和5年、50歳で早く亡くなった。又私の姉(スミ)も妹も早く世を去り、男親一人、子一人のためもあるが、今だに父の夢をたびたび見る。しかし、母の夢は見たことがない。
 その後、男手でやってきた父は、教育の大事なことを心がけていた様子だ。不景気のどん底にもかかわらず、私を中学校を卒業させた。又早くから私の嫁取りに節子に目をつけていたが、節子が女学校の修学旅行の日に彼女の父は前夜から帰ってこないので、私の父が直方駅に駆けつけて先生に挨拶をしたそうだ。又節子の卒業式の日「黒田賞」という特別賞をもらった時も、父は我がことのように喜んでいた。そして、いやがるのを強引に嫁がされてきた。そんな父のひたむきな愛を節子は素直に受けとめて、終生最後まで考養を尽くしてくれた。
 謝々。合掌。
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