|
|
|
|
100周年記念誌より(発行:2000年11月) |
|
望に燃えて 赤地の新天地へ移転 |
|
|
2月24日から2月28日にかけて、市役所商工課の先導で、頓野地区・中泉地区・木屋瀬地区等の団地候補地視察会が行われ、私はそれに参加した。組合においても1回、2回、3回と団地希望者懇談会を開催したので私も参加した。
因みに、当時の団地希望者は次の通りである。
|
共和物産 |
2,000坪 |
|
吉岡鉄工所 |
1,500坪 |
|
坂田機械 |
1,000坪 |
大同鉄工所 |
3,000坪 |
福永鉄工所 |
500坪 |
村井工業 |
3,000坪 |
柴田鉄工所 |
2,000坪 |
倉田鉄工所 |
5,000坪 |
川原鉄工所 |
3,000坪 |
大島鉄工所 |
3,000坪 |
九州鋳鉄管 |
15,000坪 |
小野原鉄工所 |
3,000坪 |
石本鉄工所 |
500坪 |
若林鉄工所 |
2,000坪 |
田才鉄工所 |
2,000坪 |
内藤鉄工所 |
3,000坪 |
木森鉄工所 |
2,000坪 |
大塚鉄工所 |
3,000坪 |
石橋製作所 |
3,000坪 |
協和鉄工所 |
5,000坪 |
折から各工場とも住民パワーによる公害問題が大なり小なり起きつつあった折でもあり、国の資金助成法も大きく作用して、皆、多めに申し込んだものである。
5月19日、何回目だったか、一向に埒があかない団地希望者懇談会の時、隣の席に出席していた木森茂君に
「一向に埒があかんなー。いつのことやらわからんばい、どこか田圃のかたまったところないかなー」
と独り言まじりで話しかけたものである。
「溝堀の太田さんが土地を売りたがってる話を聞いたばい。俺にゃ売んなんけんど、あんたならひょっとするとよいかも知れんばい」
他の工場と違って宿命的な鍛造事業をやっているその頃の私の工場の状態は、切羽詰まったことまできていたので、私は木森君の話に飛びついた。
|
|
工場建設前の風景 |
|
直ぐ懇談会を抜け出して帰り、節子・薗田と協議して早速、溝堀の太田鉄工所を訪ねた。
「石炭産業華やかな時代、田川線から分かれて元炭坑の引込線が入り込んで、その鉄道を外した後の堤防は細長く東に延びて、やぶしらずのように荒れ果てていた。自分の名義になっているので誰かに売りたいと思っていた。しかし、近くの田圃を合わせないと足りんやろ。前平さんという方が地区長をしておられるので、その人に会って話を進めた方がよい」と好意的な太田さんの言葉だった。
この辺の進展は、私の人生の大きな転換期がきたような思いがした。節子たちも大いに喜んで積極的に話しを進めることにした。
実はその頃、私は体調を崩していた。ガムシャラに働いてきて、そのうえ心労ストレスが昂じて動けなくなっていた。人との交渉ごとは、義兄薗田専務もそうだったが、私も不得意であった。そのため、土地の取得の交渉ごとは専ら節子が当たってくれた。
|
節子さんと研一氏 |
今から考えると大変な仕事であった。何分にも田と畑と堤防の3つが入り組み、筆数が十軒以上もあり、手土産さげて一軒一軒、毎日毎日出かけた。昼に行っても畑で不在、夜に行かねばならぬ。本人だけでなく、兄弟・親戚にも相談してと言われる方もあり、熱意と根気がなければ出来ない仕事だった。
節子は大変な重労働を強いられたものである。
「ズ」と「ヅ」の違いで大分市役所の戸籍課に行ったこともある。土地の所有者だけでなく、農地委員の方、水利組合長さん、町会議員の方等にも挨拶回りしなけりゃならなかった。持ち前の説得力で節子はよく頑張り、土地の方は大体の目処がついた。
私もようやく元気を取戻し、工場建家の安上がをねらって古家を物色した。当時の日誌をひもとくと次の通りである。(※1参照)
|
|
|
(※1) |
|
|
一、 |
三十六年八月二十九日 |
|
「折尾高校」古家入札 不調 |
|
一、 |
三十六年十月三日 |
「中津市財務局」鉄骨家屋入札 不調 |
一、 |
三十六年十月七日 |
「飯塚筑豊機械」に主張 「三菱新五坑鯰田坑」鉄骨古家 下見 |
一、 |
三十六年十一月二十八日 |
「田川農林高校」講堂十六万円で落札 |
一、 |
三十六年十一月三十日 |
右校解体費用4万5千円 |
一、 |
三十六年十二月五日 |
「直方運送」解体、合掌等運搬持ち帰り |
|
|
|
|
|
土地代、整地代、建家代、転移費、あれこれ考え出すと気の遠くなるような話しだったが勇気を出して農地転用許可書の到来を只、待つばかりとなった。何分2,340坪と当時としては、広域なためと、鉄道の跡地ということで再三、県から視察があり、新町の工場も立ち入り調査をされた。
昭和36年も暮れて、明けて37年1月1日正月休みも終わり、今日から仕事始めの1月5日、福銀直方南支店より中小企業金融公庫より融資600万円入金の電話を受けた。同じ日の午後1時、小竹町役場より赤地農地転用許可書が到着したので取りに来るように電話があり、勇躍受け取った。
その時の一同の喜びは、今も忘れぬことができません。正月早々心気一転、身の引き締まる思いだった。
斯くして、昭和37年1月6日、内藤鉄工所改め、「株式会社内藤鍛造所」がここに発足した。
現在では、約10,000坪を有する工場になった。
|
|
|
|
追 記 |
|
|
|
筆をおさめるに当たって、もう一度始めからふりかえってみると、協力者節子の存在の大きさを知った。18歳でフイゴ鍛冶屋に嫁いできてから、やがて金婚式を迎えようとしている。
50年の長い間の内助の功に感謝する次第である。15才の鍛冶工から身を起して、今、世界のトップ人であるブレジネフは、妻ビクトリヤのことを次の如く書いている。
妻、ビクトリヤ、ベトロフナは、
私にとっては妻であり、
私の子供たちの母であるばかりでなく、
類、稀な打てばひびく友となった。
ブレジネフと私、研一
月とスッポンで、お笑いもよいところだが、この言葉は、今の私の心境そのものである。
内藤研一
昭和63年9月10日没。80才。
|
|
|
|
|
|
|